愛するということは

揺らぐ気持ち

 マクシミリアンの言葉は、ジャスミンの心に棘のように刺さってしまった。


 あの最悪な初顔合わせから十年。

 ジャスミンは、ずっとジャックを見返すために生きてきたようなものだ。失礼極まりない王子を、自分を愛さずにはいられない、そんな女になろうと頑張ってきた。

 それなのに、マクシミリアンはジャスミンに、相手が誰であろうと王妃になるべくして雛菊館に迎えられたのだと告げた。


 考えれば考えてしまうほど、マクシミリアンの言ったことは本当のように思えてしまう。

 王太子の婚約者が、王妃の館に迎え入れられるのは前代未聞のことだった。それこそ、新聞にも実は未婚の王コーネリアスが息子から花嫁を奪おうなどと乱心したのではないかという記事もあったほどだ。


「もっとよく考えてみるべきだったわね」


 ペンを置いたジャスミンは、ポツリと呟く。


「また、なにかお悩みですか、お嬢様」

「たいしたことじゃないわよ」


 心配してくれるイザベラが、どれだけ信じてくれたのかジャスミンにはわからなかった。


「たいしたことでなくても、お嬢様の限界まで溜めこまないようにしてくださいね。お嬢様は、すぐになんでも溜めこんでしまうんですから」

「そうね、気をつけるわ。それで、次は誰?」

「キルギス将軍です。ゴブラン織りのガウンとジャスミンの香りの石鹸を頂いております」

「わかったわ」


 ジャスミンは今、ガーデンパーティーの招待客からの贈り物のお礼の手紙を書いている。

 庭園の入り口で招待客から預かった贈り物が荷馬車三台分あったと聞いたときは、ジャスミンは耳を疑った。

 あれから二日たった今も、ジャスミンはお礼状を書くのに追われている。リストが確かなら、まだ半分ほどしか終わっていない。


(やることがあるというのは、いいことだわ)


 インクが乾いたのを確かめて、ジャスミンは新しい紙に向き合う。


 それでも、マクシミリアンに植えつけられた疑念は、ふとした瞬間に胸の奥から浮上しては頭を悩ませている。


 王太子のジャックが婚約者だと聞かされていた。疑うことなどなかった。それが、たった一度のマクシミリアンとの会話でこんなにも揺らいでしまうとは、彼女が一番驚いている。

 マクシミリアンは、従姉のリディアを利用した勢力側の人間だ。彼女にとっては、敵だった。今でも許すつもりはない。けれども、マクシミリアンと結婚する可能性をジャックは今まで明かさなかった。柊館で、六王子の肖像の前で反体制勢力の話をしてくれたときも、ジャスミンは何かはぐらかされた気はしていたのだ。


(ジャック様だけではないわ。メリッサも、きっと何か隠している)


 ガーデンパーティーを途中で抜けて雛菊館に帰ってきてから、慣れないことに疲れたのだろうと、カレンも納得してくれた。あの場にいたメイドたちは少なくない。マクシミリアンと話していたのを見た者も当然いた。けれども、あくまでも水面下で動いているからだろうか、誰ひとりとして彼との会話の内容に原因があると疑っていない。


(メリッサも、あれからマクシミリアンの言ったことを否定も肯定もしないわ。それどころか、話すことも避けている)


 メリッサだけが、雛菊館でジャックとマクシミリアンの水面下の対立を知っているのだろう。


(カレンも知っているかもしれないわね。彼女も、リディアのときに巻きこまれているもの)


 それを言ったら、イザベラも巻きこまれている。彼女は、特に教会の不正を正すのに重要な役割を果たしている。そこまで考えると、ジャスミンの胸の中に新たな疑念が鎌首をもたげる。


(ジャック様は、リディのことをあらかじめ把握していたのではないかしら。反体制勢力が外部から来た人間と接触して利用するなんて、よく考えなくても思いつく話じゃない)


 教会がボロを出すまで、あえて放置していたのではないだろうか。そもそも、ジャックが輝耀城から戻る途中で保護するなんて、偶然にしてはできすぎているのではないだろうか。

 だとしたら、ジャックも大切な従姉を利用して命を弄んだことになる。彼もマクシミリアンと同じではないだろうか。


(もしかして、ジャック様がよくしてくださっているのは、わたくしも利用するため? 政略結婚でも愛し愛されたいというのは、わがままなのかしら)


 いつの間にか、手が止まっていた。機械的に綴っていた文字がにじんでいるのは、知らない間に溢れていた涙のせいだった。


「お嬢様、今日はこのくらいにしましょう」

「そうね、そうするわ」


 ペンを置き指先で涙を拭いながら、無理に聞き出そうとしないイザベラの優しさに感謝した。


「ねぇ、ベラ」

「なんでしょうか、お嬢様」


 下手をすれば自分より若く見える童顔のイザベラが、とても頼もしい。遠く離れた祖国で、毎日娘のために祈ってくれているだろう実の母よりも、ずっと力になってくれる。


「愛って何かしら?」

「お嬢様、それは……」


 照れたように目をそらしたイザベラは、間違いなく誰かに恋をしているのだとジャスミンは確信した。


(男友達しかいないって言ってたくせに)


 しばらくもじもじと目をそらしたあとで、イザベラは観念したように口を開いた。


「お嬢様、愛というのは様々な形があります。どんな形であれ、相手の愛を受け入れるのも、尊い愛の一つだと神の教えにあるではないですか」

「そうだったわね。でも、わたくしは、ベラの愛が知りたいの。ねぇ、もう決まった相手はいるの?」

「もう、お嬢様ったら……」


 呆れたようにため息をついたイザベラだったけれども、実のところ話したくてしかたがなかったのだ。

 異国の地でようやく掴みかけている結婚のチャンス。相手はどうやら彼女に百合小説を布教した青年らしい。少し前にジャスミンの機嫌をそこねたせいで、はっきりと言わなかったけれども充分伝わった。

 恋しているイザベラの話に、ジャスミンはすっかり夢中になった。


「それで、新年節が終わったら、彼のご家族にあたしを紹介してくれるって約束してくれたの。アスターに来るからって」

「じゃあ、来年にはベラも結婚ね」

「まだそこまで話が決まったわけでは……」

「そうに決まっているじゃないの」


 照れるイザベラに、ジャスミンは自分のことのように笑う。ひとしきり笑ったあとで、たとえようのない虚しさに襲われた。


(わたくしも、ベラみたいにジャック様に夢中になれたらよかったのに)


 初顔合わせの場で、人間に見えないとひどいことを言ったジャックが、たったの十年で変わるわけがない。

 笑顔が消えたジャスミンの頭を、イザベラはポンポンと優しく触れる。子どもっぽい扱いに、ジャスミンはむすっとした。


「お嬢様、何を悩んでいるのか無理に聞くつもりはありません。ですが、思いつめないでくださいね。お嬢様は、いつも……」

「わかっているわよ。いつも暴走するって言いたいんでしょう」

「はい」


 唇をすぼめてむくれていられる間は、まだ大丈夫だとイザベラは口元を緩める。


「元気になったようですし、お礼状の続きを」

「はぁい」


 甘えた声を出して、ジャスミンは新しい紙に向き合ってペンを取った。

 そうしてしばらくの間、彼女は余計なことを考えないようにとペンを走らせ続けた。


「失礼いたします」


 メリッサの声に、ジャスミンは手を止めて顔を上げる。あいかわらず、彼女はきっちりとした髷を作っている。彼女の手には、一通の手紙があった。


「ジャスミン様、柊館から書状が届きました」

「柊館から?」


 首を縦に振ったメリッサは、封を切られた封筒から便箋を取り出してジャスミンに渡す。もうすでに、メリッサは目を通したあとだ。

 イザベラにも見えるように、ジャスミンは手紙を広げて目を通す。

 それは柊館に滞在しているマクシミリアンからではなく、彼の恋人のデボラが書いた手紙だった。

 平民の自分が誘うのはという丁寧な断り書きから始まった手紙は、ジャスミンをお茶会に誘うものだった。


「マクシミリアン様は、関係ないと書かれていますが、どういたしましょうか? 使いの者を一応待たせておりますが、今すぐに返事をしなくても……」

「行くわ。明日にでも行くと、そう伝えてちょうだい」


 メリッサが不器用ながらに気遣いを込めた言葉を遮るように、ジャスミンはきっぱりと答えた。


「明日にでもと、お答えしてまいります」


 少しだけジャスミンを案じたのか表情を曇らせたメリッサだったけれども、異を唱えることなく膝を軽く曲げた。出ていこうとした彼女に、ジャスミンは声をかけた。


「メリッサ、あなたは知っていたのよね。もしもジャック様に代わってマクシミリアン様が王になったら……」

「そのようなことには決してなりません」


 ピタリと足を止めて、振り返ったメリッサは少しの迷いもなかった。


「ジャック様が王になります。ジャスミン様は、何も悩むことはございません」

「そう、メリッサはジャック様のことを信じているのね」


 それは、自分は信じられないのだと言っているようなものだった。


(だから、あんなくだらないゲームをさっさと終わらせろと言っているのに)


 口を開きかけたメリッサは、いっそのこと全部台無しにしてやろうかとも思った。けれども、それが誰のためにもならないことも知っていた。


「ジャスミン様も、もっとジャック様のことを信じてあげてください。では、わたしはこれで失礼いたします」


 結局、今のメリッサに言えるのはその程度の薄っぺらい言葉しかなかった。

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