デボラという女
いつもの女中頭の目つきになったメリッサは、ソフィアに二つ三つ質問をして、柊館にいる使用人たちと協力するために席を外した。
「こんなことになるなんて……」
「わたくしも、思わなかったわ。だから嵐でも来たのだけど、後悔していないわ」
うなだれたデボラに、ジャスミンは優しい気持ちになった。イザベラにお茶を淹れるように指示してから、ジャスミンは揚げ菓子を口に運んだ。思いの外しっかりきいていた香辛料のおかげで、気持ちだけでなく頭もすっきりする。下手に勘ぐるのは、綺麗さっぱりやめることにした。
おずおずと顔を上げたデボラは、実はとはにかむ。
「実は、わたしも後悔していない……いえ、後悔しないような一日にしたいです」
「なら、そういう一日にしましょう」
「はい」
イザベラが淹れてくれた美味しいお茶の香りに、浮かない顔は難しい。
(ジャスミン様は、本当に素敵な方だわ。わたしのほうが年上なのに、住む世界が違うのね。マックスから、従姉さんのことを聞いたときは、わたしのことも……でも、そんなことなかった)
デボラはすっかりジャスミンのファンになっていた。
喉を潤したジャスミンは、できれば雛菊館に来てほしいという気持ちもこめて尋ねた。
「それで、マクシミリアン様から離れてあなたはどうするの?」
「まだしっかりとした計画は立てていないんですけど、製本所や本屋と小説家をつなぐような仕事を始めるつもりです」
しっかりとした計画は立てていないと、ジャスミンにはとても言葉通りにとらえることができなかった。
「えーっと、ご実家の製本所の仕事を手伝う、ということかしら?」
「ジャスミン様にわたしの家のことを知ってもらえていたなんて、嬉しいです」
「まぁ、ちょっと噂を耳にしただけだけどね」
ちょっとどころか、腐女子の宿敵リリー・ブレンディの版元に通じる相手としてそれなりに、ジャスミンはデボラの身辺の情報は手に入れていた。
少しは親しくなったとはいえ、ジャスミンはまだ腐女子だと明かすつもりはなかった。イザベラがそわそわしだしたのも、なんだか気に入らない。
「噂、ですか」
自分がどう言われているのか知っているデボラは、一瞬顔を曇らせたけれども、すぐに何ごともなかったかのように続けた。
「実家の手伝いというわけではありません。この業界の話をすると長くなるので、ある程度かいつまんでお話しいたしますね。とりあえず、一般書籍と同人誌については知っておいてもらわないといけないから……」
もちろん、ジャスミンはそれなりに知っているとは言えない。
自分の好きなことや夢のことを話しているうちに、デボラの声は熱を帯びるようになった。
(ジャック様もだけど、夢中になれることがあるって、本当に素敵なことよね)
一応、ジャスミンにもBL小説があるのだけれど、話す相手は慎重に選ばなければならない。
(たぶんデボラはイザベラと同じ百合厨よね。そういう意味では、敵だもの)
揚げ菓子をつまんだりしながら、デボラの話しにジャスミンは耳を傾ける。
「ジャスミン様はご存知ではないでしょうけど、この国の一部の女性たちから絶大な人気を誇るジャンルがありまして……」
「……」
嫌な予感がして、ジャスミンは口に運ぼうとしていたティーカップを静かに下ろした。
「ジャスミン様のような高貴な方には無縁のジャンルなので、詳細はお話できませんが、訳ありなジャンルでして、一般書籍として取り扱う版元がないのが現状です」
「……」
イザベラは、なんとも言えない眼差しをジャスミンに向ける。
(高貴な方に無縁なって、そんなこと……あるわね)
そのジャスミンは、地味に精神的ダメージを受けていた。
「この業界も、やっぱり男社会でして……女性ウケを狙うのはリスクが高いとか、そういう古臭い考えが根強いんです。男が稼いだ金で、女が本を買うのはけしからんという版元までいるんですよ」
「女を侮辱しているわ」
つい口を挟んでしまったジャスミンだったに、デボラはわかっていただけますかと、身を乗り出す。
「その通りです、ジャスミン様。女だって、本を読むし書きます。だいたい、人口が増えてきた今、結婚だけが女の幸せだという考え方も変わっていくべきなんです。働く女が活躍する時代がくるべきなんです」
「……あなた、結婚しないつもりなの?」
イザベラの問いに、デボラは迷いのない声で答えた。
「はい。わたしは、もうマックスのことを忘れられません。初めから、ひと時の若気の至りだとわかっていましたけど、もう気持ちは割り切れないので、女性のための新しい形の版元を立ち上げたいと考えたのです」
それにと、デボラは急に厳しい顔つきになった。
「それに、BLを一般書籍として扱わないと、いつまで経っても百合を毛嫌いする偏見腐女子がいなくなりませんからね」
「…………」
イザベラの意味ありげな視線が、ジャスミンに突き刺さる。
(そういうことだったのね。たぶん、BLの普及を邪魔していたのは、百合豚作家のリリー・ブレンディではなくて、業界が男社会なのが原因だったのね)
偏見腐女子の一人として、ジャスミンは深く反省した。もちろん、同時に腐女子バレしていなくてよかったと胸を撫で下ろす。
ジャスミンが額に手をやるのを見て、デボラはハッと我にかえる。
「あ、つい熱が入ってしまって……」
「いいのよ。気にしないで」
ぬるくなったお茶を飲み干して、ジャスミンは気を取り直す。
「きっと大変なことも多いでしょうけど、わたくしも何か力になりたいわ」
「そんなっ」
BLの一般書籍化にガッツリ協力を惜しまないと、ジャスミンは言いたかった。けれども、そこは次期王妃だ。外面をたもたなければならない。それに――
(彼女に雛菊館に来てもらいたいなんて、横暴だったわね。あの男の恋人なんて、もったいないくらいよ)
あるかないかのチャンスを逃すまいと次期王妃をお茶会に招いた豪胆さだけではなく、デボラは自分の考えをしっかりもっているしたたかさも兼ね備えている。
感無量と涙ぐんでいる彼女のほうが、よほど素敵だとジャスミンは眩しそうに目を細める。
「ジャスミン様は、国中、いえ、世界中の女性の希望です」
「え、そんなことは……」
「あります!」
落雷の音に負けないくらい大きな声を出したデボラは、気恥ずかしそうに居住まいを正す。
「わたしは、ジャスミン様から希望をわけてもらいました。どんなにジャスミン様が謙遜や否定されても、わたしには事実です。ガーデンパーティーで、ジャスミン様のスピーチを聞かなかったら、わたしは夢を諦めていたかもしれないわ。なんだかんだ言っても、マックスと別れられる自信がなかったもの。ジャスミン様が勇気をくれた。きっと、ジャスミン様が王妃になったら、もっと多くの人に勇気を与えてくれるって確信してます」
「そ、そう、かしら……」
「そうです! ジャスミン様は自覚がないのですか、こんなにも素敵な……」
まんざらでもない様子のジャスミンは、この後、夕食に呼ばれるまで恥ずかしくて帰りたくなるくらい、デボラの外の嵐よりも激しい褒め殺しにあうのだった。
恋人のデボラが、並々ならぬ熱意を嵐のようにジャスミンにぶつけている頃、マクシミリアンは気だるそうに手元の紙に目を通していた。
「三十六人、か」
「はい。信頼できるのは、もはやそれだけです」
恥じ入るように答えたのは、彼の侍医ヒューゴだった。
「いや、充分だ」
紙をデスクの上に置いて、彼は頬杖をつく。
「すまなかったな、わざわざ嵐の中、輝耀城まで」
「いえ、そんなことは……」
ただでさえ猫背だというのにさらに背中を丸めて恐縮するヒューゴは、陰気そうな男だ。根暗で陰湿なところもある。リセールの伊達男には、あまりにも不釣り合いだ。
「頭痛のほうは、大丈夫ですか?」
「ああ、お前の薬はよく効く」
見た目は不釣り合いな男だけれども、医者としての腕はたしかだ。今朝も嵐がひどくなると知って、ひどくなる前にと痛み止めの薬を出したことからも、ヤブ医者ではないことははっきりと分かるだろう。
(これ以上、ヒューゴに余計な真似をさせるわけはいかんな)
ヒューゴ・ウィスティンは、三十過ぎにしてはとても優れた医者だ。けれども他のことに関しては、マクシミリアンは信頼できないでいた。
「数日のうちに、決着をつける。叔父上も、いよいよといったよう様子だったしな」
「では……」
目をギラつかせて丸めていた背中を伸ばしたヒューゴに、マクシミリアンは口の端を吊り上げて気だるそうに笑う。
「ああ、そういうことだ。だから、余計なことはするな。俺が声をかけるまで、ここに書いてある潜伏先に全員待機しろ」
「待機、ですか?」
「不満そうだな」
マクシミリアンが鼻を鳴らすと、陰気な医者はまた萎縮して背中を丸める。
「前回の失態をもう忘れたか。雛菊館に手を出すなと、あれほど言ったにもかかわらずに、だ。向こうは思いがけない手柄に、笑いが止まらなかっただろうよ」
そう、反体制勢力の潜伏先の一つだった教会の悪事を暴いたとして、ジャックの即位に対する期待は高まってしまった。
「俺が信用できないような奴らは、すぐにでも立ち去れとも伝えておけ」
「か、かしこまりました」
ヒューゴの声が震えたのは、近くの落ちた雷の音に驚いたからでも、マクシミリアンの威圧的な態度に屈したからでもない。不満のせいで、声が震えたのだ。
(いよいよと言っておきながら、また待機。マクシミリアン様は、何を考えているのか)
けれども、マクシミリアンを失望させるような失態は今さら取り戻しようがない。魔女のクスリを利用したあの計画は、ヒューゴの発案ではなかった。けれども、リディアの体調の異変にいち早く気がつき、焦らせたのは彼だ。そういう意味でも、彼は優秀な医者だった。
深々と頭を下げたヒューゴが出ていってしばらく、マクシミリアンは気だるそうに頬杖をついたまま目を閉じて思案にふけっていた。
「くだらないゲームだが、付き合う価値がある、か。愛しのデビーは、今ごろ女子会を楽しんでいるかな」
そうつぶやいて目を開けた彼のもとに、月虹城の落雷による月虹城封鎖の国王命令が届いたのは、もうしばらく後のことだった。
その時、彼は小姓が来たのも気がつかないほど、ペンを走らせることに夢中になっていたらしい。
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