メリッサというメイド
「おはよう、メリッサ」
挨拶を返すジャスミンを通り越して、メリッサはカーテンを開けて、少しだけ窓を開ける。
もうすっかり、夜が明けていた。朝の清々しい風に、ジャスミンの気分も少しだけ晴れる。
新鮮な空気を入れてくれたメリッサは、ジャスミンのもとに戻ってきた。
「昨夜は、大変申し訳ございませんでした」
「え、ええ」
あいまいな返事をしてから、ジャスミンは新鮮な空気を胸いっぱい吸いこんでメリッサに正面から向き合った。
「わたくしには、あなたがリディを止めてくれたように見えたわ。でも、正直なところ、何が起きたのかまったくわかっていないの。だから、あなたがわたくしに何を謝罪したいのか、はっきり言ってくれないかしら」
メリッサの金色の目が揺れる。
「それは……」
「メリッサ、お願いよ。どうして、リディがあんなことをしたのか、わたしにはわからないの。それが、どんなに不安なことか、あなたにはわからないかもしれないけど」
すぐに、メリッサは答えなかった。彼女は、迷いを見せている。
この続き部屋でジャスミンは、メリッサの弱さの鱗片を見た。あれから、まだ一日もたっていない。
(メリッサは、やっぱりジャック様のことを好きなんじゃないかしら)
ジャスミンは、メリッサがリディアを押し倒したときに、ジャックに傷を負わせたことを怒っていたことを思い出した。
「メリッサ、あなた、やっぱりジャック様のことが……」
「違います」
最後まで聞かずに、メリッサは否定する。
「ジャスミン様、昨日申し上げたとおり、わたくしのような者がジャック様に男女の関係を望んでよいわけがないではありませんか」
「そう……」
頑なに認めようとしないメリッサに、ジャスミンは触れるべきではなかったかと唇を噛んだ。
(また、わたくしのような者だわ)
昨日、少しは距離が縮まったと手応えを感じた。あとは時間をかけてもっと打ち解けようと考えていたけれども、そういうわけにはいかないらしい。
「メリッサ。あなたはその若さで、雛菊館の使用人たちをよくまとめてくれているわ。日頃、あなたの陰口を叩いている人だって、あなたがよくできるメイドだと認めているはずよ。それなのに、どうしてわたくしのような者だなんて、自分を卑下するようなことを言うの?」
ジャスミンの真摯な声に、メリッサは観念したように肩を落とす。
「ジャスミン様、あたしはジャック様を暗殺するために七竈館にきたんですよ」
「え?」
耳を疑ったジャスミンは、背後のイザベラと目を合わせた。
「だから、あたしは月虹城にいていい人間ではないんですよ。それなのに、ジャック様は暗殺に失敗したあたしを側においてくださって、人並みの人生をくれたのです」
メリッサがなぜジャックを慕っているのか、ようやくジャスミンにもわかった。
「昨日も申し上げたとおり、わたくしにとってジャック様は恩人なのです。お慕いしますが、決して分相応な感情はありません。それは、ジャック様を汚すことになりますから」
彼女が言葉にした以上のことがあったのだろう。それこそ、ジャスミンには想像できないようなことが。
(これ以上は、踏みこむべきじゃないわね)
あまりにも重い事情に、ジャスミンはなんて言えばいいのかわからない。
「先ほどジャスミン様は、わたくしがリディア様をお止めになったとおっしゃいましたが、違います。わたくしは、リディア様を殺すつもりでした。ジャック様が止めていただけなかったら、わたくしは償いきれない罪を犯すところでした」
「そんなに、ジャック様に傷を負わせたのが許せなかったのね」
「ええ。たとえ、魔女のクスリのせいだとしても、わたくしは許せませんでした」
「魔女の、クスリ?」
聞き覚えのない言葉に、ジャスミンが首を傾げる。メリッサの表情は変わらなかったけれども、自分の失言を責めていたに違いない。金色の目がまた揺れている。
(メリッサは、やっぱり何か知っているのね)
ジャスミンは、確信した。けれども、今は追求するよりも優先するべきことがある。
「メリッサが謝るべきなのは、リディだわ。わたくしではないはずよ」
「そう、ですけど……」
言いよどんだメリッサは、ようやく揺れていた視線をジャスミンにぶつけた。
「そもそも、わたくしがジャスミン様を七竈館にお連れしなければ、あのようなことにはならなかったのです。ですから、わたくしは雛菊館の女中頭を辞めます」
「えっ! どうして!」
予想していなかった辞職発言に、ジャスミンは大きな声を上げる。けれども、メリッサは淡々と答える。
「ですから、わたくしのような者は、月虹城にはいてはいけなかったのです」
「ねぇ、メリッサ、落ちつてよく考えてちょうだい」
ジャスミンは頭が痛くなってきた。頑なな人を説得するのが、これほど大変だとは思わなかったのだ。
(今度からは、もっと謙虚になるように努力しなくてはいけないわね)
こめかみをもみながら、ジャスミンは説得を続ける。
「やめるだなんて、おかしいわ。そもそも、わたくしが七竈館に行くなんて言わなければよかったのよ」
「ジャスミン様、それは違います。わたくしが、ジャック様を困らせたくて、七竈館にお連れしたのです」
メリッサははっきりとそう言った。
(不思議ね。なんだか、メリッサらしくて困るって思ってしまうなんて)
それほど深刻ではないため息をついたジャスミンは、昨夜向き合っておいてよかったとしみじみした。そうでなかったら、ただパニックになって何も解決できなかっただろう。
「メリッサって、案外かわいいところあるよわよね」
「え? かわいい、ところ、ですか?」
目を丸くしたメリッサは、たしかにかわいかった。表情が豊かではないけれども、メリッサは決して鉄面皮ではない。
「あなたが、ジャック様のことをどれほど慕っているのか、よくわかったわ。そんなあなたを捨てた……」
「捨てられたわけではありません。ジャック様は、わたくしにジャスミン様をお守りするように命じられて、雛菊館に来たのです」
「でも、不満だったんでしょう?」
「そんなことは……いえ、そうですね。そうでなかったら、困らせたいなどとは、考えませんでした」
メリッサは、イザベラと同じ年に生まれている。彼女もジャスミンよりも五つ年上だ。けれども、彼女は前から時折こうして子どものような一面を見せる。
(暗殺者なんて、まともな環境で育てられたわけがないわ。きっと、わたくしが想像できないような環境だったに違いないわ。ジャック様が、人並みの人生を与えてくれたというのは、そういうことよね)
まだ十七歳だけれども、ジャスミンは次の王妃の自覚はある。
(自分に与えられた館の使用人たちをまとめられなくて、どうしてジャック様に愛されるにふさわしい女になれるっていうのよ)
ジャスミンは唇を湿らせる。
「月虹城の雛菊館の人事権は、このわたくしが握ってます」
月虹城の四つの館で子女のための柊館以外は、それぞれの館の主に人事権を与えられている。だから、メリッサはジャスミンに直接辞めると言ったのだ。
何を今さらという首を傾げるメリッサに、ジャスミンははっきりと告げた。
「メリッサ、あなたの辞めたいという訴えは、却下です」
「しかし、ジャスミン様……」
「最後まで聞いてちょうだい」
にっこりとジャスミンは微笑んでみせた。それは、まさしく女主人の微笑みだった。
「あなたの気持ちは、よくわかったわ。でも、あなたは雛菊館に必要な存在よ。あなたがいてくれないと、雛菊館はなりたたないの。せっかく、うまくやっていけると自信を持てるようになったのに、今、メリッサがいなくなったら、困るのよ」
ひと息ついて、ジャスミンは続けた。同じ笑顔なのに、今度は意地悪く見える。
「それとも、ジャック様だけでなくて、わたくしも困らせたいのかしら? そうよね、本当ならわたくしを困らせるべきだった……」
「ジャスミン様、わたくしが悪かったです。あなたを困らせたくはありません」
たまりかねたのか、完全に無表情の仮面が剥がれたメリッサは、必死で訴えた。
それを聞いて、ジャスミンの笑顔は勝ち誇って見える。
「そう、じゃあ、雛菊館の女中頭を続けてくれるのね」
「ええ、しかたありません。ジャスミン様がおっしゃったように、今、わたくしがいなくなったら、雛菊館をまとめる者がおりませんから」
降参したメリッサは、またいつもの無表情を取り繕って続ける。
「ですが、何一つお咎めなしというのは、納得がいきません」
「そうね、それもそうだけど……」
彼女の気持ちもわかるけれども、ジャスミンは罰を与えるつもりはない。というよりも、思いつかないのだ。
(困ったわね。これから先、雛菊館の女主人としても、王妃としても誰かを罰さなくてはならないのはわかるけど……)
メリッサの過去は、ジャスミンがどうこう言う筋合いはない。そう考えてみれば、リディアを危うく殺しそうになったことくらいしか、彼女を責められない。
(それだって、リディとジャック様を守ってくれたのよね)
ジャックに殴り飛ばされて、未遂に終わっているのだ。
しばらく考えて、ジャスミンはようやく答えを出した。
「あなた、大好きなジャック様に殴られたんですもの。それで充分ではないかしら?」
メリッサは黙って殴られただろう側頭部を押さえた。その表情ははっきり読み取れなかったけれども、充分堪えているのがよくわかった。
「ですが、ジャスミン様、あれだけでは……」
「いいえ、充分傷ついたでしょう。ね?」
見守っているイザベラは、ジャスミンの強情さが出たとこっそりため息をついた。
(メリッサ様、早く折れてくれないかしら)
彼女は目で、メリッサに折れるように訴える。その訴えが届いたのかはわからないけれども、メリッサは少しだけ肩を落とした。
「かしこまりました。わたくしは、これまで以上にジャスミン様に心からお仕えするしかないようです」
そう聞いてジャスミンは嬉しそうに両手を合わせる。
「さ、そういうわけで、あらためてよろしくね、メリッサ」
「はい、ジャスミン様」
初めて、ジャスミンは雛菊館の女主人らしく振る舞えた充足感に浸る。
(いろいろあったけど、メリッサとも打ち解けたし、リディもきっと……)
ジャスミンは、ヴァルト王国の民に負けじと劣らないおおらかで楽観的なのかもしれない。けれども、そんな彼女でも、まだ隠されている事があるのだと思うと胸がざわつく。
(魔女のクスリ、ね。メリッサに今尋ねるよりも、ジャック様から聞いたほうがよさそうね)
まだ残っている問題について思案に耽っている彼女の横で、イザベラが腰に手を当てた。
「それにしても、お嬢様、女に手を上げるなんて最低ではないですか」
「それは、そうでもしなければ、わたくしを止められなかったからです」
すかさずメリッサが擁護するけれども、イザベラはいいえと首を横に振る。
「それはそれ、よ。もし、お嬢様に手を上げると考えただけでも……」
わざとらしく自分を抱いてイザベラは震える。そんな彼女に、メリッサは冷淡に反論する。
「わたくし以外の女性に、ジャック様が手を上げるなどありえません」
「そう言い切れるのかしらね。殿方の考え方は、わたしたち女とは違いますもの」
「では、訂正します。ジャスミン様に手を上げることはありえません」
「そこまで言い切るなら、なにか根拠があるんでしょうね?」
負けじと言い返すイザベラに、メリッサは一瞬だけ言葉に詰まった。
「根拠はありますけど、お教えできません」
「なによそれ」
雛菊館に来た当初、冷たくてあまり関わりたくないと、イザベラはジャスミンに愚痴をこぼしていた。それが、今はどうだ。
(よかったわ。ベラもすっかり雛菊館に馴染んでる)
ジャスミンが、嬉しくないわけがない。不毛な言い争いをしばらく眺めていた彼女は、手を叩いて二人の注目を集める。
「大丈夫よ、ベラ。わたくしは、ジャック様をとりこにすると決めたんですもの。手を上げるなんて考えられないくらい、相思相愛になれば問題ないわよ」
「お嬢様……」
呆れきったイザベラは、もう何も言うことはなかった。
空気の入れ替えができた頃合いになり、メッリッサは窓をそっと閉じた。
(ジャック様が、なぜジャスミン様に夢中になるのか、わかる気がする)
だからこそ、メリッサはお互いの気持ちを教えるつもりはない。もうしばらく、見守っていようと決めているのだ。
「メリッサ、今笑った?」
「え、メリッサ様が笑ったのですか?」
二人の目には、あいかわらずのメリッサの無表情が映る。けれども、たしかに先ほど一瞬だけメリッサが微笑んでいたと、ジャスミンは言い張るのだった。
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