夜が明ける
ジャスミンが目を覚ましたのは、夜が明ける少し前だった。
あまりのことに気を失ったジャスミンは、ジャックに抱えられて用意された寝室に運ばれたことを、もちろん知らない。
もともと、目覚めたときからスッキリしていることが少ない彼女だ。いつものように、ぼんやりとベッドの上ですごしていると、にわかに周りが騒がしくなった。
(なにか、あったのかしら。わたくしはたしか……)
いつもよりも鈍い頭は、まだベッドがいつもと違うことに気がついていない。もしかしたら、次から次へと襲い掛かってきた衝撃的な出来事を一度に思い出さないように、無意識のうちに鈍らせていたのかもしれない。自分の
ぼんやりとしているジャスミンの顔を最初にのぞき込んだのは、医者のカレンだった。
「気分はいかがですか? ジャスミン様」
「う、うん。なんだか、頭がぼうっとしてるだけ、すぐによくなると思うわ」
毎朝、彼女はにこやかに検診に来てくれる。けれども、今のカレンは元気がなかった。笑顔も、作っているのがよくわかる。いつも、緩やかにそれでいてしっかりとまとめている褐色の髪がほつれている。
(なにか、あったのかしら……)
起きる時間だと思いこんだジャスミンが体を起こそうとすると、カレンが首を横に振る。
「まだ夜も明けていないですし、ぐっすりお休みください」
「えっ……」
それならどうして、カレンがいるのだろうかと考えを巡らせる。と、たちまち気を失う前の出来事が頭に蘇ってきた。
「リディ! リディは?」
カレンを押しのけるようにして、ジャスミンは飛び起きる。
「落ち着いてくださ……」
「落ち着いていられないわよ」
ジャスミンが容易に主任医師のカレンを押しのけられたのは、カレンに気力が残っていなかったからだろう。本当は、彼女も疲れ切っていて、ベッドが恋しくてしかたないのだ。けれども、リディアの症状を見過ごしてしまった責任感から、こうしてジャスミンのそばに付き添っていた。たとえ、ジャックが不問にしたところで、彼女の医師としての責任感は、消えることはなかった。
「カレン、あなたも休んだほうがいいわ。ひどい顔をしているもの。わたくしは、医療のことなんてまだまださっぱりだけど、そのくらいはわかるわ。あなたまで倒れられたら、わたくしが困るもの」
「そう、ですね」
気遣いができるということは、カレンが思っていたほど、ジャスミンは動揺しているわけではなさそうだった。
(ジャスミン様には、本当に驚かされるわ。まだ十七歳なのに、ね)
主人の気遣いは、カレンの張り詰めていた糸をほぐしてくれた。ようやく、カレンは七竈館で笑うことができた。それは、力なく疲れきっていたけれども、笑顔は笑顔だ。
「わかりました。後のことは、イザベラ様におまかせして、休ませてもらいます」
悪く言えば、カレンはイザベラに丸投げしたことになる。けれども、いったい誰が咎めるというのだろうか。
ジャスミンが冷たい床につま先をつけると、カレンと入れ替わるようにイザベラがやってきた。童顔の彼女は、一気に年相応に老けこんで見えた。
「お嬢様、まだお休みになったほうが……」
「大丈夫よ。ベラのほうこそ、休んだの?」
「もちろん……お嬢様、裸足ではないですか」
申し訳なさそうにするジャスミンに、イザベラはスリッパを履かせる。
(もう、お嬢様ったら。休めって言っても、リディア様のこととかはっきりするまでは、ベッドに縛りつけておかないと無理ねぇ)
「お嬢様のお側についていたかったですけど、つきっきりでわたしまで倒れられては困ると言われましたので、先ほどまでしっかりと休んでましたとも」
「そう。もっともだわ」
着替えさせる余裕がなかったのか、ジャスミンは昨日の部屋着のままだった。
(よく、こんな格好で七竈館に押しかけられたわね)
焦げ茶色の地味な服で、よくジャックに会えたものだと嘆きそうになるけれども、今さらどうしようもない。今は、自分の服なんかよりも大事なことがある。
「リディは? メリッサも、無事なの? というよりも、いったい何が……」
「お嬢様、まずは少しでも身なりを整えないと。それに、食べられるようでしたら、今のうちに何かお腹の中に入れておいたほうがいいですよ」
困りきった様子で、イザベラは考えておいた台詞を口にする。彼女も、事態を理解できずに混乱しているのだと、ジャスミンは気がついた。
「わかったわ。何か用意してあるなら、いただくわ」
「ええ、すぐに」
イザベラは疲れが残っているだろうに、急いで食べ物を用意させた。
だらしない顔で七竈館にいてはなめられると、温められたパンを口に運ぶジャスミンに、イザベラは厳しく言った。とはいえ、その童顔のせいで厳しさは本人が思っているよりも半分も伝わらない。
厳しさは伝わらなかったものの、ジャスミンも身だしなみだけでもきちんと整えなくてはと望むところだった。
小腹を満たしたジャスミンは、顔を洗ってイザベラに髪をとかしてもらう。燃えるようなと巷では人気らしい赤い髪は、絡まりやすくてあつかいにくい。イザベラに朝晩ブラシで念入りにとかしてもらって、さらに雛菊館に来てからはメリッサの勧めで髪にいいという香油でツヤを出す。さすがに、着替えを雛菊館から持ってこさせるという申し出は、断った。本当は、シワもついてしまった服なんてごめんだった。けれども、押しかけてきた上に他にも色々と七竈館の世話になっているので、これ以上のわがままは控えることにした。
「そういえば、メリッサはどうしているのかしら?」
髪をとかしてもらいながら、鏡越しにジャスミンはイザベラに尋ねる。その声は、強張っている。
イザベラは、どう答えたらいいのか悩んでしまった。尋ねられるだろうとわかっていたけれども、先ほどのように答えるべき台詞が思いつかなかったのだ。
(お嬢様が、どこまで覚えていらっしゃるのかがわからなくては、迂闊に話せないですしねぇ)
彼女も、ジャックに案内されたあの部屋で起きたことを、正確に把握している自信はない。ジャスミンのように気を失うことはなかったけれども、彼女も頭が真っ白になっていたのだ。
鏡越しでも、イザベラの苦悩をジャスミンはしっかりと読み取った。
「ねぇ、ベラ。わたくしは、もう取り乱したりはしないわ。だから、何が起こったのか、あなたが知っている限りでいいから教えて。どのみち、すぐに知らなければならないでしょうしね」
「それは、そうですけれど……わかりました」
話しながら整理すればいいと、イザベラは力なく笑った。
髪をとかしながら、彼女は求められたところ――リディアが突然立ち上がったところから、見たものを語って聞かせた。
ジャスミンほど教養はないイザベラは、時おり言葉に悩みながらも、ジャスミンが目にしたものを彼女の視点で語った。ほとんど、ジャスミンが目にしたものと変わらない。けれども、おかげでジャスミンは自分が見たものを、現実だったと受け入れることができた。
リディアが突然ジャックに襲いかかったことも、メリッサがリディアを押し倒したことも、ジャックがメリッサを殴り飛ばしたことも、すべて悪い夢ではなかったと、ジャスミンは受け入れた。
「お嬢様がお倒れになったとき、ジャック様が抱きとめてくださったのですよ」
「えっ! ジャック様が?」
「ええ、ここまで運んでくださったのも、ジャック様です」
「嘘、どうしましょう」
胸をときめかせている場合ではないとわかっているけれども、ジャスミンは感情を抑えることができなかった。
頬を赤く染めたジャスミンに、イザベラはわざとらしく咳払いをした。
「わたしは、何がなんだかわけがわかりませんでした。なので、ジャック様のあとを追いかけるのが精一杯でした」
「そう、なの」
暗にジャックの様子など訊いてくれるなという脅しのような響きに、ジャスミンの頬はたちまち元通りになる。
「カレンにお嬢様を診ていただいている間に、ジャック様はご自身の怪我の手当をして七竈館に行かれたようです。リディア様は今もおそらくあの部屋にいるでしょう。メリッサ様は……」
イザベラの表情が曇らせて言葉を詰まらせた。ブラシを持つ手が止まる。
「メリッサは、どうしているの?」
「あ、はい、それが……」
ジャスミンにうながされて、イザベラは止まっていた手を動かす。
「それが、わたしには休むように言っておきながら、お嬢様の側から離れないつもりだったのです」
ブラシを鏡台に置いて、イザベラは続ける。
「わたしには、昨日のメリッサ様に、とてもお嬢様に任せられませんでした。だから、わたしは交代で仮眠を取るように説得しました。大変だったんですよ。メリッサ様、本当に頑固でして、まるでお嬢様を説得しているみたいでしたよ」
「ベラ、なんだか言葉に棘があるような……」
「ええ。もちろんです」
イザベラの目が不気味光っている。彼女は、だてにジャスミン付きをやっていない。ジャスミンにも、イザベラを困らせてきた申し訳なさが少しはある。
「じゃあ、メリッサは今休んでいるのね」
「ええ、わたしが起きている間にお嬢様がお目覚めになられたのですよ」
だから、急いで話を進めるのは当然のことだったろう。
「結局、わたくしは何もできないのね」
「そうです。わたしたちにできることはないです。今は、リディア様の無事を祈るしかありません」
そう言って、イザベラは聖石を両手で押さえて目を閉じる。
(ベラはいいわよね。祈れることが、こんなに羨ましいとは思わなかったわ)
ジャスミンは、国を出るときに神の加護を捨てた。つい癖で、今もイザベラのように胸元に手をやりそうになった。教会で神官に清められた聖石は、信徒の証であり、神の奇跡の媒体だ。目に見える形で、神の力がある。だからこそ、ヤスヴァリード教は大陸西部で最大の影響力を持つ宗教だ。
(さて、ジャック様かお医者様からお話があるまで、待つしかない。でも、どうやって待ちましょう)
従姉のリディアでなければ、雛菊館に帰るという選択肢もあった。けれども、その選択肢は考えるまでもなく、ない。
鏡に向かって、ジャスミンはいつまで待てばいいのかもわからず、憂鬱なため息をついた。
「おはようございます」
突然、メリッサの声がして、ジャスミンとイザベラは心臓が止まるかというくらい驚いた。
いつの間にか戸口に立っていたメリッサは、いつも通り黒い髪をひっつめて一本の後れ毛もゆるさいないほどきっちりと結い上げている。それから、あいかわらずの無表情。昨夜、ジャックに殴り飛ばされた痕跡は見当たらない。
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