ジャックの一手
右手に残った黒のクイーンにため息を浴びせかけて、コーネリアスはジャックの肩越しに庭師を見やる。もう笑っていない。眉をハの字にして困った顔をしている。
「アンナが入ってこないように、ちょっとなだめてきてくれ」
「コーネリアス様、それはちょっと……」
暗がりから答える声は、遠慮したそうだ。
ジャックの耳にも、続き部屋のほうからアンナの声と足音が届く。
(まったく、この人たちは……)
父のうろたえぶりに、ジャックは呆れてしまう。
「エイブ、十分だ。十分だけでいいから、なだめてきてくれ」
「十分だけですよ」
続き部屋に通じる扉が、一度だけ開いて閉じる音がした。
二度目がないことを確認してから、コーネリアスは車椅子の背もたれに沈みこむ。
「ジャック、母親を驚かせるな」
ジャックは不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
(どうせ、アンナは俺のことなんか考えちゃいない。いつだって、あの人は……)
目の前で黒のクイーンを両手でもてあそぶ父のことばかりだ。
「父上、ジャスミンだけじゃない。俺はまだ何も失っていない」
「かわいそうなリディア・クラウンもか?」
包帯を巻いた右の拳に力が入る。
「ジャック、お前のお気に入りの雌犬からも聞いていだろう。魔女のクスリのことは。それなのに、お前は動かなかった」
ククッと喉を鳴らして、コーネリアスは左手を開いて横になったクイーンを見せる。
「まだ失っていない。たしかに、そうだろうとも。だが、リディア・クラウンの命を救う手立てはない。この国にきて早々に死んだとあれば、マール共和国には、医療への不信感が生じるだろう」
実に楽しそうにコーネリアスは続ける。
「せっかく、わたしがを政略結婚という形でお膳立てしてやったと言うのに、お前というやつは……」
「父上、まだ起きてもいないことばかりですよ。耄碌するには早すぎるとばかり考えてましたが、そうでもなかったようですね」
父が言いたいことなどわかっていると、ジャックは硬い口調でさえぎった。
「リディア・クラウンに国外に移ってもらいます」
「神に助けてもらうのか、マール共和国との国境を超えるまで死なないように、お前は何に祈るのだ? まさか、神などと言ってくれるなよ」
耄碌と言われては、コーネリアスの声が刺々しくなるのはしかたないことだろう。
ジャックは余裕たっぷりに、まさかと肩をすくめて笑った。
「彼女には、大河を渡って神聖帝国に行ってもらいます。手配が整い次第、出発してもらうつもりです。ジャスミンには申し訳ないが、今夜の噂が広まる前に彼女には去ってもらわなくては」
神聖帝国と聞いて、コーネリアスは軽く目を見開く。
「なんの冗談だ、ジャック。どうせなら、もっと面白い冗談を言ったらどうだ、え? マール共和国よりは近いが、行ってどうなる? リディア・クラウンにツテもないようでは、結果は同じよ。金と時間の無駄だ」
口調は軽いけれども、声は鋭い。
ジャックは、父が失望の念を抱いているのがよくわかった。実際、それだけのことをしでかしてしまった――いや、するべきことをしなかった。
右手の包帯にまた血がにじみ出す。
(だから、取り返しがつくうちに、こうして来たんだ)
ゆっくりと、ジャックはゆっくりと右手を開く。
「冗談などではありません。リディア・クラウンを神聖帝国に送る。そのことで、父上にお願いしたいのです」
「ジャック、お前まさか、ギル兄様が彼女を癒やしてやってくれるとでも考えているわけではないだろうな?」
沈黙をもって、ジャックは肯定する。
コーネリアスは息子が冗談を言っているわけではないと知ると、左手にあったクイーンが床に落ちるのも構わず、左手で震え出した右手を押さえた。どんなにポーカーフェイスが上手くても、精神的負担は右手の震えとなって知られてしまう。今年に入ってからは、徐々にひどくなる一方で抑えきれなくなった。この症状こそが、ジャスミンを雛菊館に迎え入れ、年明けに退位の意向を示そうと、彼に決断させたのだ。
予想以上が怒らせてしまったと、ジャックは唇を噛んだ。父にとって、五人の兄たちがどれほど大切な存在だったか、知っているつもりだった。けれども、唯一今でも頻繁に手紙を通じて交流のある一番下の兄のことで、右手が震えるとは思わなかった。
(誰か呼んで、また出直したほうがよさそうだな)
ジャックが人を呼ぼうとオイルランプの横にあった呼び鈴に手を伸ばした、その時だった。
あえぐように大きく息を吸ったコーネリアスは、藍色の瞳を怒りで燃え上がらせて、ジャックを睨みつける。ジャックが、思わず伸ばしかけていた手を止めてしまうほどの激しい怒りだった。
「ギル兄様は、お前が考えているよりもよほど気まぐれだ。そもそも、顔も知らんお前の頼みなど、聞き届けるわけがない。ギル兄様は、そういう人だ」
閉じそうになった右手を開いて、ジャックは一手となる切り札を切った。
「父上、やはり耄碌しましたか? 父上が言ったではないですか。リディア・クラウンが死ねば医療に不信感が生じると」
感情を抑えた声になったのは、ジャック自身のため。これ以上、父の踏みこんではいけない領域を侵したくない。
「人の心に生じる不信感は、マクシミリアンを王にしたところで、消えませんよ。マール共和国は、八十年前まで教会の圧政から解放されたと言うのに、いまだに教会に対する信頼は大きい。そのくらい、人の心に根ざしたものはしぶとく残るのです。豊かな未来を期待して送り出した民を数ヶ月で見殺しにすれば、百年は残るかもしれません。父上は王位を退き、死んだあとのことなどどうでもよいとお考えかもしれませんが、この後何十年と長期成長政策に支障をきたすのは、避けるべきではないのですか?」
コーネリアスの右手の震えは収まっていた。だからといって、ジャックは気を抜くわけにはいかない。
(このまま、押し切れなければ後がない)
切り札を切ってしまったのだ。もし、コーネリアスが神聖帝国に亡命した兄に頼りたくないと言ってしまえばそれまでだし、なによりジャックはギルバート・フィン=ヴァルトンという伯父の人となりをほとんど知らない。知っているのは、末弟にあたるコーネリアスを溺愛していることくらいだ。
だから、先ほどコーネリアスの口から気まぐれな人だと聞かされて、冷や汗をかいていた。あてにしようとした人が、溺愛する末弟の願いを退けて、リディアを見殺しにする可能性まで、考え至っていなかった。
充分すぎるほど、待ったとジャックは感じた。実際には、一分にも満たなかったかもしれない。けれども、彼はこれ以上待てなかった。
「長期成長政策は、クリストファー元王太子が発案したんでしょう? あなたが、この二十……」
「黙れ。お前が調子に乗って口にしていいわけがないんだよ。クリス兄様は」
コーネリアスは怒りに燃えていた目を伏せて、息をついた。
「いいだろう。わたしから、ギル兄様にリディア・クラウンの治癒を依頼してやる」
「ありがとうございます!」
緊張感から解放されたジャックは、勢いよく頭を下げた。
「ただし、タダでとはもちろん思っていないよな」
コーネリアスの声が沈んでいることに気がつかずに、ジャックは上機嫌に顔を上げる。
「もちろんです、父上。今回の失態は、魔窟の教会を徹底的に叩いて挽回します」
「そんな当然のこと、対価になるわけがないだろ」
「えっ?」
声を弾ませていたジャックは、コーネリアスが意地悪く笑っていることに気がついた。それから、左手に呼び鈴があることも。
「十分など、とうに過ぎている。ジャック、わたしの夜更かしに、ただでさえアンナは機嫌が悪い」
「あ、あの、父上、それは……」
「お母さんに、わたしの分まで叱られてくれるよな。ジャック」
青ざめるジャックに、拒否権などあるわけがなかった。
してやったりと意地悪な笑みを深めながら、コーネリアスは呼び鈴を鳴らす。
(最低だ。大人げないにもほどがあるだろ)
このあと、黒い風になって飛びこんできたアンナがコーネリアスを寝かしつけたあと、きっちり一時間ジャックは説教される羽目になった。
今回の件の対価が一時間の説教ですんだのなら、普通に考えれば安いものだろう。
けれども、月桂樹館からの帰り道、ジャックの足取りはフラフラで疲労困憊を体現していた。それほど、アンナのお説教はダメージが大きかったのだ。
(ほとんど八つ当たりだったじゃないか……)
アンナは、積もりに積もった日頃の鬱憤まで全部ジャックにぶちまけてきた。
「ま、俺には病人の介護なんかできないしなぁ」
ヴァルト城から出ることができない父王に代わって、施療院や療養所の慰問で見てきたからわかる。健康な体で生まれてきたことが、どれほど恵まれたことなのか。どれほど、病人のそばで寄り添うことが大変なのか。それから、命の大切さ、尊さと、死の恐怖。
全部、見てきただけだ。
だからこそ、長年父を支えてきたアンナに、ジャックは敵わないと知っている。
(もし、ジャスミンが病に倒れても、俺はアンナのようにはできない)
ため息をつくけれども、アンナのようになりたいかと問われれば首を横に振るだろう。
ジャックは、自分の役割をわきまえているつもりだ。アンナのように病人に付き添うことはできないけれども、他にアンナにできないことがジャックにはできる。
それでも今のジャックは、充分すぎるほどアンナの八つ当たりはこたえている。
誰だって、八つ当たりされて気持ちがいいわけがない。ましてや、それが言い返せなかったりする場合は、特にだ。
松明片手に、今にも足を止めそうなくらいフラフラと歩き続ける。
小径の左右の暗がりから、また軽快な双子たちの声が聞こえてきた。
「あーあ、アンナ様に叱られて落ちこんでるじゃん」
「自業自得だよ。こんな時間に押しかけるんだからさぁ」
ジャックは、また声を無視する。
「まぁた、そうやって無視するぅ」
声を揃えて、双子たちはまたジャックの行く手に飛び出してくる。
「なんなんだ。俺はもう疲れたんだ」
げっそりとして足を止めたジャックに、双子たちはクスクス笑う。
(こいつら、本当にいい性格しているな)
もう、面白がるような双子の笑い声に腹を立てる気力もない。
「ねーねー、ジャック、知ってる?」
「知ってる?」
早く帰りたいジャックは、目でなんのことだと先をうながす。
「女を殴る男って、嫌われるに決まってるよね、サム」
「それなのに、ジャックったら、ジャスミン様の前で思いっきりメリッサを殴り飛ばしていたしね、トム」
「…………」
クスクス笑い続ける双子たちに、ジャックは言葉を失った。というよりも、帰るために残っていた気力が魂とともに抜けてしまったようだった。
より一層覚束ない足取りで双子たちに近づいてくるジャックは、まるで伝説の亡者のようだった。
「どうしたの? ジャック」
「なんか、顔色悪いよ、ジャック」
ただならぬ様子に顔をひきつらせながらも、双子たちは動けなかった。彼の足元から、どんよりとした冷気のようなものが立ち昇っているような幻覚のせいだ。近づいてくるにつれて、双子たちはジャックがブツブツとつぶやいていることに気がついた。
「終わった……何もかも終わった……無理……結婚したいのに……もう無理……」
「ちょ、ちょっと、ジャック!」
「ごめん、僕らが悪かった! 謝るから、しっかりして、ジャック!」
飛び石の上に、松明が落ちる。
双子たちが慌てて消しに行こうとする前に、ガバッと両腕を広げたジャックが一気に距離を縮めてきた。そして、小柄な双子たちの上にのしかかってきた。
「ちょっとぉおおおおおおお」
「重いぃいいいいいいいいい」
双子たちが喚いても、ジャックは動かなかった。
「もう一歩も動けん……七竈館まで連れてけ」
双子たちの悲鳴が夜の庭園に響く。けれども、広大な庭園だ。聞く者がいたのかどうか、さだかではない。
ただ、しかたなくジャックを七竈館まで連れ帰ったあと、飛び石の上に放置された松明は、暗がりから浮かび上がるように現れた黒装束の男が、ちゃんと始末をした。
「まったく、トムもサムも何をやってるんだか。しかし、親子揃って世話が焼けるよ、まったく」
ぼやいたのは、月桂樹館でジャックが背後から耳にした声だった。
雲間からようやく顔を出した月を見上げて、男はようやく試練の夜に一区切りついたと目を細めた。
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