クイーンの告白
ジャスミンがコーネリアスに会うのは、実質これが初めてだ。十年前のあの日に会っているはずだけれども、彼女はまったく覚えていなかった。
(そういえば、わたくしはあの日のジャック様の顔も思い出せないわ)
あえぐように「お前、人間、か?」と言い放った少年は、まるで化け物に出会ったかのようにこれでもかと目を見開いていた。ほんの数か月前まではっきりと覚えていたはずの顔がぼやけている。今、あの少年を思い出そうとしても、うまくいかない。大人になったジャックの笑顔に邪魔される。
ジャックですらまともに思い出せないのだから、コーネリアスのことまで覚えているはずがない。
マクシミリアンと笑いあったあと、ジャスミンはしばらく待たされ、イザベラとメリッサを残して一人、コーネリアスのもとに通された。
ジャックが赤薔薇のようだと褒めた深緑のドレスを着たジャスミンの胸元には、もとからそこにあったかのようにサファイアの首飾りが揺れている。
日当たりの良いその部屋は、彼女が想像していたよりもはるかに殺風景だった。無地の白い壁紙に、寄せ木張りの床には絨毯すら敷かれていない。ジャスミンの実家でも、これほど殺風景な部屋はない。
車椅子に座ったコーネリアスは、青みがかった灰色のガウンで貧相な体を大きく見せていた。肩の下で切りそろえられた黒髪と左目のモノクルのおかげか、病弱よりも知的な印象を強調している。彼の後ろには、スカートではなくズボンをはいた白髪交じりのメイドが控えていた。
(あの人が、ジャック様のお母様かしら)
療養に専念しなくてはならないほど死期が迫っているようには、ジャスミンの目にはとても見えなかった。
「お呼びいただきありがとうございます」
彼女がうやうやしくドレスのスカートを摘んで膝を軽く折ると、満足気にコーネリアスは軽くうなずいた。
「そこに座りなさい」
「え?」
コーネリアスは、左手を軽く上げて目の前の肘掛け椅子に座るように彼女にうながした。彼女は、あまりにも近すぎると思わず戸惑いの声を上げてしまった。
首を左に傾けてコーネリアスは、もう一度座るように言う。
「座りなさい。わたしの左目はほとんど見えない上に、この頃どうも右目もかすみがちでね。ジャスミン、そこに立っていられては、表情もわからないのだよ」
そう言われては、従うしかなかった。
(じゃあ、左目のモノクルは見えないことを隠すためかしら)
おずおずと座ってから、ジャスミンはコーネリアスの髪がカツラだと気がついた。それに、血色をごまかすために顔に
「燃えるようなと評判のようだが、まるで赤薔薇のようね」
「それは、おそらくドレスのせいだと思います」
ジャックと同じことを言われて、ジャスミンは恥ずかしくなった。あの時はまだ薔薇を見たことなくて戸惑ったことを思い出したのだ。
「ドレスのせいもあるだろうが、君の赤毛が見事というのもあるだろう」
「ありがとうございます」
自慢の髪を褒めてもらって、ジャスミンは悪い気はしない。
「それで、どのようなご用でわたくしは呼ばれたのでしょうか?」
「ああ、実は特にない」
「へ?」
苦笑しながら、コーネリアスはこともなげに続ける。
「強いて言えば、外聞や体裁のためだ。国外から呼び寄せた息子の許嫁に、一度も会わないというのは、君の祖国にいい印象をもたらさないだろう。ないがしろにされたと不満を持つかもしれない」
「そんなことはありません」
大陸西部でも一二を争う大国の国王が、息子の許嫁に関心を抱かなっただけで、いちいち印象を変えたりはしないだろう。ジャスミンは、真剣に否定した。相手が国王だというのにだ。
「そうだろうか。わたしが知っているマール共和国の人々は、君もふくめてそうとう気位が高い。誇り高き北の戦士とやらの気風が残っているのではないかな」
それはつまり、悪く言えばプライドが高くて高慢ちきということではないかと、ジャスミンはなんと答えらいいのかわからなかった。
(たしかに、わたくしは負けず嫌いですけど……そういえば、ジャック様もわたくしたちマール共和国の女は強いとおっしゃってましたし、あながち間違っていないかもしれませんわ)
特に、母のシェーラは典型的ではないか。
(お母様だけではないわ。お父様もお兄様たちだって、コーネリアス様がわたくしとお会いにならなかったと聞いたら、きっと文句を言うわ)
ジャスミンが考えれば考えるほど、コーネリアスの言ったことは正しくなってきた。
「そういうわけで、わたしは特にこれといった用はない。だから、君が何かわたしに言いたいことがあれば遠慮なく言ってほしいね。せっかくの機会だから」
そう言った彼の後ろに控えていたアンナは、軽くジャスミンに同情した。
(コニーにそう言われて、すっと話せるような人はそういないわよ)
国王であること、病人だということなどで、初対面で彼と話すのはそうとう気を遣うのだ。
ところが、ジャスミンはほんの少しだけ考えてから、失礼ながらと口を開いた。
「失礼ながら、一つ確かめたいことがあります」
「一つで良いのか?」
「ええ、とりあえずは」
意外そうに右目がぱちくりと瞬きをした。
「わたくしを雛菊館に呼んだのは、ジャック様とマクシミリアン様に、ゲームを終わらせるように発破をかけるためだったのですか?」
「そうだよ」
いいように使われたのではという疑惑は、あっさりと肯定されてしまった。
「不満そうだね」
「ええ、正直不愉快です」
「ずいぶん、はっきり言ってくれるね」
コーネリアスは、ククッと喉を鳴らして笑った。それから、感慨深そうにゆっくりと目を閉じる。
「わたしには、もう時間が残っていない。この冬を越すのも難しいだろう」
死ぬことは、とコーネリアスはゆっくりとまぶたを押し上げる。
「死ぬことは、この国では灰になるということだ」
「存じております」
「ならば、神の信徒たちとは違って、死後の世界はないことも知っているね」
ジャスミンはこくりとうなずいた。
「死生観は異なっても、悔いのないように人生をまっとうしたいというのは、同じ人としてかわりはない。わたしはそう考えている」
苦笑した彼に、ジャスミンは軽く息をついた。
(この人は、ジャック様と同じだ)
この国を愛している。この国をより良くしたいと願っている。
(きっと、ジャック様がこの国のために誰かをいいように使ったとしても、わたくしはそれを許してしまうでしょうね)
左に首を傾げてコーネリアスは、微笑んだ。
「納得してくれたようだね」
「はい」
さてと、コーネリアスは首を元の位置に戻した。
「アンナ、あれを」
「はい」
アンナはにっこりと微笑んで、一冊の本をジャスミンに差し出す。
「これは?」
少し日に焼けた深緑の表紙には、『花言葉』と箔押しされた題名があった。
「わたしはね、勝敗にかかわらずゲームをやり遂げた者にご褒美を与えることにしているのだよ。あの二人の促進剤となってくれた君も、受け取って欲しい」
ジャスミンは戸惑いがちに表紙を指先で撫でる。
「君は、花言葉というものをよく知らないらしい」
「え、ええ。その通りです」
花に意味を込める行為は、多くの国で古くから行われている。けれども、発祥の地とされているヴァルト王国が、やはり一番根づいていた。
(祖国でも、花を愛でる余裕があるほど豊かな国になったらいいわね)
そのためにも、この国の王妃として生きていかなければならない。コーネリアスが先ほど教えてくれた外聞や体裁の重要さも肝に銘じて、ガーデンパーティーで彼女自身がスピーチしたように噂以上の素敵な女性にならなくては。
彼女がご褒美を膝の上に置く彼女に、コーネリアスは満足げに目を閉じ微笑んだ。
「愛想の良い、愛らしさ。それが君の名前にもなっているジャスミンの花言葉だ」
「し、知りませんでした」
気恥ずかしさでいっぱいになったジャスミンは、本の強く握りしめる。
「花言葉を知っていれば、花束に込められた想いも本を読むように読める」
「は、はい。……これから、学びます」
背筋を伸ばした彼女に、コーネリアスは再び目を開けて、いたずらっぽく微笑む。
「それでいい。そのほうが、ジャックも君に花束を贈りがいがあるだろう」
ますますジャスミンは本を強く握りしめる。
(コーネリアス様は、覚えていらっしゃらないのかしら。十年前、ジャック様がわたくしにひどいことをおっしゃったのを)
だから、こともなげにそんなことが言えるのではないかと彼女は思った。
うつむきそうになった彼女に、そうそうとコーネリアスは続ける。
「あの子も意外と可愛いところがあってね。以前、妖精と結婚すると言ってきかなかったこともあるくらいだ」
「妖精?」
あのジャックがそんな夢見がちなことを言っていたとは、ジャスミンにとって意外でしかなかった。
思わず首を傾げた彼女に、コーネリアスはまた目を閉じる。今度は眠たそうに。
「そろそろ薬の時間でね。君は雛菊館に戻りなさい」
「は、はい、かしこまりました」
そう言われて、ジャスミンは彼が病人であることを思い出した。
「ねぇ、コニー」
「なんだい?」
「せっかくなら、赤薔薇の花言葉も教えてあげればよかったのに」
「情熱、愛、美……あなたを愛してます、と? それでは面白くないだろ」
ククッと喉を鳴らして笑った彼に、アンナは肩を落としかけたけれどもすぐに思い直して車椅子を押した。
「それもそうね」
「これで素直になれないようでは、一生あの二人は両片想いのままだよ」
それはそれで面白そうだけどと、意地の悪いことをコーネリアスが言えば、アンナは心にもないことをと笑う。彼らには、もうこのあとのことが目に浮かぶようにはっきりと想像できた。
控えの部屋で待っていたイザベラとメリッサを連れて、ジャスミンは雛菊館に通じる回廊を歩きながら二人に宣言した。
「わたくし、決めましたわ。今夜、ジャック様に告白します」
「まぁ、ようやくですか」
苦笑いを浮かべたイザベラに、ジャスミンはくだらない意地を張っていたのだと自覚する。
「わたくし、何をあんなに意地になっていたのかしら。ジャック様に今すぐに結婚したいと言わせたいとか、なんだか恥ずかしいことばかり言っていたわね」
彼女は、ジャックに嫌われるはずはないと自信を持っていた。この十年、虜にするために彼のことばかり考えてきたのだ。そんな女は、自分以外にはいない。彼が自分を愛せないなら、他に彼が愛する女はいないだろう。彼女は恋に破れる気がしなかった。
決意をかためて胸を張るジャスミンに、メリッサは少しだけ残念に思った。
(お二人の焦れったいお姿を見られなくなると思うと、なんだか残念ね)
でも、いつかはこんな日がやってくることを、メリッサは知っていた。
意気揚々と回廊を渡り終えて、雛菊館に帰ってくると、意外な人が待ち構えていた。
「ジャック様、どうして……」
輝耀城でやるべきことがあったのではないかと、戸惑うジャスミンにジャックは厳しい顔でせまってきた。
「ジャスミン、ようやく帰ってきたか! 父になにかひどいことを言われなかったか?」
「い、いえ、ひどいことなんてなにも……」
「本当に?」
「ええ」
「我慢することはないぞ、ジャスミン」
しつこくせまるジャックの肩を、マクシミリアンが叩く。
「心配しすぎだ、ジャック。彼女の顔を見ればわかるだろう。あの人がその気になったら、こんな顔はできないぞ」
「たしかに」
どういう意味か、ジャスミンは怖くて尋ねられなかった。
(コーネリアス様って、いったい……)
ジャックとマクシミリアンだけでなく、デボラもジャスミンたちが月桂樹館から帰ってくるのを待っていたようだ。
イザベラとメリッサに、マクシミリアンとデボラと、ジャックと二人きりというわけではないけれども、ジャスミンは告白するなら今だと思った。
(ジャック様と二人きりになったら、わたくし、絶対に無理)
告白すると決めた途端に、心臓がバクバクと激しく動き出した。
「あ、あの、ジャック様……」
「ん?」
胸をなでおろしていたジャックは、なんだろうと首を傾げる。
「ジャック様、わたくしは今でも化け物のように見えますか!?」
「え?」
「あ……」
慌てて口を押さえるけれども、もう遅い。
(わたくしの馬鹿ぁああああああああ!! 何言ってるのよ! 愛してますって言うところじゃないのぉ。どうして素直になれないのよぉおお)
何とも言えない微妙な空気に、彼女は押しつぶされそうだった。
彼女の失言に、イザベラは天を仰ぎ、マクシミリアンとデボラは口元に手をやって肩を小刻みに震わす。メリッサですら、引き結んでいた唇が震えて今にも無表情の仮面が剥がれそうだった。
そして、ジャックはまばたきを繰り返している。
「化け物? え?」
わけがわからないと困惑する彼が、ジャスミンの目にはとぼけているように映る。
「ジャック様、わたくしを化け物呼ばわりしたことをお忘れなのですか!?」
「え? 俺が、君を? そんなはずは……え?」
戸惑う彼に、彼女は怒りに顔が真っ赤に染まる。
「言いました! 十年前、ジャック様はわたくしに、『お前、人間、か?』と化け物呼ばわりしたではないですか!」
ダンっと床を鳴らしたジャスミンに、ジャックは大きく目を見開く。
「ジャック様が覚えていらっしゃらなくても、わたくしははっきりと覚えていますわ」
「…………嘘だろ」
あえぐように天を仰いだジャックは、大きく息を吸って首をもとに戻す。その顔はジャスミンに負けじと劣らず真っ赤だ。
「ああ、言った。言ったとも。たしかに、十年前のあの日、俺はそう言った!」
「覚えていらっしゃるのですね、わたくしを化け物……」
「誤解だ!」
ジャックの大きな声に、ジャスミンはびっくりして口を閉じる。
「誤解だ、ジャスミン! 俺がそう言ったのは、君が妖精のように可愛かったからだ」
「え? 妖精?」
つい先ほど月桂樹館で聞いたばかりの単語に、ジャスミンの頭が一瞬真っ白になった。
「なんでそうなるんだ! じゃあ、君があのとき泣いたのは、俺がそう言ったからか? 俺と結婚するのが嫌で、泣いてたんじゃないのか。嘘だろ、なんでそうなるんだ」
『あの子も意外と可愛いところがあってね。以前、妖精と結婚すると言ってきかなかったこともあるくらいだ』
信じられないと喚くジャックの声と重なるように、コーネリアスの声がジャスミンの頭の中に繰り返し響き渡る。
「君に二度と嫌われないように、俺はこの十年努力してきたのに、なんだよ。なんなんだよ!」
『以前、妖精と結婚すると言ってきかなかったこともあるくらいだ』
「くっそ、こんなことなら、もっと早く君に……」
『妖精と結婚すると言ってきかなかったこともあるくらいだ』
顔を真っ赤にしてわめくジャックと、呆然と立ちつくすジャスミンは、すっかり周りが見えなくなっていた。
マクシミリアンとデボラがこられきれずに笑っていることも、ようやく理解が追いついたイザベラがニヤニヤしているのも、メリッサまでもが口元を手で覆って肩を震わせていることも、まるで気がついていない。
完全に二人きりの世界になっていた。
「ジャスミン、もう一度はっきり言っておく。俺は、君を化け物呼ばわりなんかしていない。そもそも、一度だって君が化け物に見えたことはない!」
肩で息をするジャックに、ジャスミンはようやくその言葉を口にした。
「わたくしは、ジャック様を見返して愛さずにはいられない女になろうって……」
息を整えたジャックは、恥ずかしそうにうつむく彼女の肩を掴んで顔を上げさせる。
「……初めから、俺は君を愛している」
「わたくしも、ずっと前からジャック様を愛してます」
見つめ合う二人は、ぎこちなかったけれども幸せそうに微笑んでいた。
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