終章

それから

 誤解も解け、ようやく両思いになれたジャスミンとジャックだったけれども、あれからまともな会話ができないでいた。

 周囲が気を遣ってテラスで二人きりにしても、まともに目を合わせられないまま、かれこれ一時間以上経っている。

 二人とも話したいことは、たくさんあった。けれども――


「あの……」

「その……」

「なんだい、ジャスミン」

「ジャック様のほうからどうぞ」

「……」

「……」


 口を開くと、なぜかこのようにすぐに黙ってしまう。これで五度目だ。

 このままでは日が暮れてしまうのではと、雛菊館の中からこっそり二人の様子をうかがっている誰もが不安を募らせ始めていた。

 さらにしばらくして、ジャックは思いっきった様子で立ち上がった。


「庭園を少し歩かないか、ジャスミン。じっとしているよりは、体を動かしたほうがいいかもしれない」

「そうですわね」


 ジャックの言うとおり、散歩しながらのほうが自然と会話ができるかもしれない。ジャスミンはそう思って、ジャックが差し出した手を取った。


(手に触れるだけで、こんなにドキドキするなんて……)


 手を繋いだのは、これが初めてではない。それなのに、ジャスミンの胸は自分でも信じられないほど高鳴っている。


「なんだか、緊張するな」

「え?」

「君の手を取るのも、これが初めてではないのに……」

「わたくしもですわ」


 クスッと笑ってしまえば、もういつものように自然に話すことができた。


「手と繋いだり、寄りかかって寝てしまったこともありましたわね」

「あれは反則だったな」


 その時のことを思い出して、ジャックも自然に笑ってしまった。


「もうすぐ、わたくしが来て三ヶ月になるんですね」

「俺にとっては、まだ三ヶ月だよ」


 ふぅと息をついたジャックは、いろいろなことがありすぎたとジャスミンと腕を絡めた。


「初日の晩餐で、君は持参してきたワインで酔いつぶれたし……」

「あれは、わたくしがお酒を飲んだことがなかったから」


 ジャスミンは唇を尖らせて抗議するけれども、目は笑っている。


「ジャック様だって、突然やってきたと思ったらお茶もお出ししないうちに帰ってしまったではありませんか」

「あれは、君があんな本を読んでいたからだよ」


 そう言って目をそらした彼に、ジャスミンはまさかと目を丸くした。


「ジャック様、『秘密の庭園』を……」

「ああ、知ってるよ。君が腐女子だということもね」

「そ、そんな、わたくし……」

「結構、ダダ漏れていたよ、君の妄想」

「……嘘」


 青ざめるジャスミンに、ジャックは苦笑する。


「ついでに言っておくけど、俺はゲイじゃないから」

「……わたくし、フィクションとリアルを混同させるような女じゃありませんわ。ジョージの婚約者、わたくしなんかよりもずっと上品でびっくりしましたもの」

「自覚、あったんだ」

「何か?」


 いやなにもと、ジャックは彼女から目をそらして、話題を変えようと咳払いをする。


従兄上あにうえは、デボラ嬢と結婚するそうだ。まだ先のことらしいけどね」

「それはよかったわ。でも、正直少し残念ね。彼女には夢を叶えてほしかったもの」

「女性のための版元というやつだね。従兄上あにうえは、結婚しても彼女に夢を叶えさせると、意気込んでいたよ」

「それほど、彼女を愛していらっしゃるのね」

「たしかにそれもあるだろうけど、従兄上あにうえは女性が好きなんだ」

「……え?」


 信じられないと声を上げたジャスミンに、ジャックはまた誤解されては大変だと、慌てて首を横に振る。


「いやらしい意味ではないよ。従兄上あにうえは、フェミニストだ。すべての女性が幸せになるべきだと、いつも言っている」

「それなら、安心だわ」

「うん、不思議だ。君がそう言うと、従兄上あにうえはゲイではないという意味の安心に聞こえてしまうから、困る」

「まぁ、失礼しちゃうわ」


 頬をふくらませた彼女の目は、笑っている。


「まぁ、女性好きが高じて、女と女の恋愛小説まで書くのはどうかと思うけどね」

「……」


 ジャスミンの足が危うく止まりかけた。


「ジャック様、それってもしかして百合小説、ですか?」

「……まさか、君、従兄上あにうえの本まで読んでいるのかい?」


 ジャックの足も危うく止まりそうになった。


「いえ、まだ百合は読んでませんけど……」

「まだ?」

「イザベラが、リリー・ブレンディという小説家の百合小説にハマってて、昨日数冊本を借りたばかりなの。もしかして、マクシミリアン様が……」

「そのもしかしてだよ。まったく、君には驚かされっぱなしだ」


 クスクス笑い出した彼に釣られるように、ジャスミンも声に出して笑ってしまった。


従兄上あにうえ、女性ファンがいると知ったら嬉しすぎて飛び跳ねそうだ」

「なんだか、わかりますわ」


 ぎこちなさは、もうどこにもなかった。


 花壇が続く道を抜けると、妖精が水面を飛び跳ねる噴水の前に出た。ジャックのお気に入りの噴水で、初めてのデートでジャスミンが眠ってしまったあの場所だ。

 どちらからともなくベンチに寄り添うように腰を下ろして、ジャスミンは妖精の彫像を眺める。


(もしかして、わたくしに似ていたのかしら?)


 小首をかしげた彼女に、ジャックは愛おしそうに目を細める。


「十年前、君はとても不機嫌そうなお姫様だった」

「え、不機嫌なんて……」

「少なくとも、俺の目には不機嫌そうに見えたよ。笑顔もなんだか、しかたなくという感じだったし、すぐに泣いてしまったし……」

「ジャック様が泣かせたの間違いですわ」

「ああ、そうだったね」


 でもと、ジャックは真剣な声で続ける。


「でも、君みたいな女の子は初めてだった。それまで、俺が知っている女の子はみんな俺の前では微笑んでいた。あんなにあからさまに感情を顔に出すなんて、無邪気な妖精だと思ったよ」

「それで、あの台詞ですか?」

「もう忘れてくれ」

「まだ忘れられませんわ」


 そう言って彼女は、ジャックによりかかる。


「これから、忘れさせてくれるような素敵な思いを一緒にしていきましょう」

「そうだな、そうしようか」


 ではと、ジャックはあらたまる。


「まずは、キスをしよう」

「そんないきなりすぎませんか!」


 耳まで顔を真っ赤にして顔を上げた彼女に、ジャックはいたずらっぽく笑いかける。


「いきなりではないよ。きちんとしようって断りを入れているだろう」

「ちょっと待ってください。今から心の準備をしますから」

「わかった。だが、ちょっとだけしか、待たないぞ」


 深呼吸を二回して、ジャスミンは心臓を少しだけなだめることに成功した。とはいえ、まだドキドキしているのだけれども。


「できました」


 ジャスミンは目を閉じて顎を上げる。


 頬についた髪をそっと払うジャックの指先に続いて頬を包みこむ大きな両手の大きさに、ジャスミンはうっとりとする。


(ようやく、わたくしの想いが………………あら?)


 息を止めてジャックの唇を待っているのに、ちっとも来ないではないか。それどころか、彼が顔を近づける気配すらない。


(……キス、してくれるのではなかったのかしら)


 弾けそうなくらいドキドキしていた心臓は、すっかり平常運転。うっとりと蕩けそうなくらい火照っていた熱も、すっかり冷めてしまった。


 どうもおかしいとうっすら目を開けると、至近距離で意地の悪い笑みを浮かべていたジャックと目があった。


「やっぱり、やめた」

「え……」

「えぇええええええええええええええええええ!!」


 ジャスミンの戸惑いの声をかき消すような悲鳴じみた女の声が、どこからともなく聞こえてきた。


「デビー、大きな声だすなって」

「ごめん、マックス。でも、あれでキスしないとか……」

「ありえませんね」

「お嬢様も待ってないで、いけばよかったのに」


 どうやら悲鳴じみた声の主は、デボラだったようだ。ガサゴソという音とともに、マクシミリアン、メリッサ、イザベラの声が聞こえてきた。


「え、え、なに? なんなの?」


 わけがわからないと混乱するジャスミンに、ジャックは肩をすくめた。


「我が王国の民は、おおらかで楽観的だ。こういうのを見逃すまいとする野次馬精神も、なかなかすごいと思うがな」


 そう言って、ジャックは手を叩いた。


「全員、出てこい。野次馬どもめ」


 すると観念したように、わらわらと周囲の茂みや石像の後ろから野次馬たちが顔を出す。


 先ほど声が聞こえてきたマクシミリアンたちだけではなく、双子の庭師や雛菊館の使用人のほとんど、他にもジャスミンが知らない顔もたくさんいた。


「嘘、こんなに……」


 こんな野次馬に囲まれて、ファーストキスをしなくてすんでよかったと、ジャスミンはジャックに感謝した。


「呆れるだろ、まったく」


 ジャックが鼻を鳴らすと、野次馬を代表してマクシミリアンは気まずそうに頭をかく。


「いやぁ、二人がちゃんと両想いになったかどうか、心配なんだよ」

「余計なお世話だわ」


 腰に手を当てたジャスミンの肩に、ジャックは手を回す。


「祝ってくれていると思えば、俺は悪い気はしないがな」

「ジャック様……」


 ジャスミンが抗議する前に、ジャックはあらぬ方を振り返った。


「あれはなんだ?」


 不思議そうなそう言った彼に釣られるように、野次馬たちは視線を追いかける。


「今だ」


 ジャスミンにそう囁いて、ジャックは彼女を抱き上げて走り出す。


 幸せそうに逃げた二人に、声を上げる野次馬はいても、これ以上二人の邪魔をするような者は一人もいなかった。

 そこまで幸せそうな姿を見せつけれたら、誰だってこれ以上は野暮というものだと言い聞かせるしかないではないか。




 始まりは、十年前。

 よく晴れた春の日のことだった。


 十年後の冬の始まりに、二人はめでたく想いを寄せ合うことができた。


 けれども、これは終わりではない。


 二人の物語は、今ようやく始まったばかりなのだから。

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ジャスミン 〜政略結婚でも、愛し愛されたい!〜 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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