サファイアの首飾り
ジャックの来訪は予定にはなかった。
初めてのデート以降、ガーデンパーティーの打ち合わせで何度か顔を合わせて話をしているものの、二人の関係に変化はない。二人とも自分たちの想いよりも、ジャスミンのお披露目であるパーティーを成功させるほうを優先事項としていたせいだ。
予定になかった上に午前の忙しい時間帯にやってきたジャックは、雛菊館にとって迷惑な客だった。
雛菊館で彼を追い払えるとしたら、女中頭のメリッサだけだ。あいにく、その彼女は彼の対応に駆けつけられなかった。
一階の客間で待つことになったジャックは、出されたお茶にも手をつけずにそわそわ落ち着きがなかった。
ジャケットの内ポケットから細長い箱を取り出しては、すぐ戻すを何度も繰り返している。
(ジャスミンは気に入ってくれるかなぁ)
細長いベルベットの布張りの箱は、濃い赤の長い毛足が撫でるたびにその表情を変える。
この前のデートで渡す予定だったのだけれども、タイミングを逃して渡しそびれた物だった。それから何度も顔を合わせているのに渡せないでいるのが、なんとも彼らしいところではある。
(でも、ガーデンパーティーには彼女の胸元を飾って欲しいからなぁ)
なぜジャスミンのことになると弱気になってしまうのか、彼が一番頭を抱えている。
しばらくして、ようやくジャスミンがイザベラを連れてやってきた。彼女たちの間に普段とは違うぎすぎすしたようなものを、ジャックは肌で感じとった。
(なんだか、空気が悪いな)
ただでさえ彼の中で難易度が上がっているというのに、追い打ちをかけられてしまった。
「お待たせしましたわ」
「いや、押しかけてきたのだから、待つのは当然だ」
笑ってみせるけども、ジャックは二人きりでないことを残念に思った。
(だから、デートのときにプレゼントしたかったんだよ)
人に見られては、気恥ずかしい言葉がますます声にできない。
「ご用件は、今朝方の変更点でしょうか?」
「ああ、そういうわけではない」
ジャスミンは、パーティーの打ち合わせだと思いこんでいる。当然といえば当然だ。けれども、ジャックはあえてついでの用件がない今日を選んだのだ。ついでは、ジャケットの内ポケットの中に入れたまま帰ってしまうのが、わかっていたからだ。というよりも、ここ何度か雛菊館を訪れるたびにやってしまっていた。
(君のために作らせた首飾りをプレゼントしたいだけなのに、なんて言い出しづらいんだ)
肝心なときに度胸がなくなる自分が情けなくてしかたがない。もういい加減、脳裏をいちいち横切る十年前のジャスミンの泣き顔の呪縛から解放されたい。
ジャックは当たり障りのない話を始めてしまおうとする情けない自分をねじ伏せて、ジャケットの内ポケットから箱を取り出した。
「今日は君にプレゼントを渡したくて来たんだ」
「まぁ」
両手を胸元に重ねたジャスミンの歓声を聞いて、ジャックは少しだけ複雑な気持ちが首をもたげたけれども、やはり嬉しさのほうがずっと勝った。
「婚約者の君に贈り物の一つもしていないようでは、笑われてしまうからね」
「そんな……薔薇を贈ってくださったではないですか」
一つもしていないなんてと言ったジャックに、ジャスミンは首を横に振る。晩餐の翌日に届けられた薔薇は、彼にとって謝罪の気持ちだった。けれども、ジャスミンにしてみればジャックからの贈り物の一つだ。今でもドライフラワーとなって寝室に飾ってある。
箱だけで感無量となっているジャスミンは、ジャックが箱を開けると目頭が熱くなった。
(婚約者という立場の世間体を気にされてでしょうけど、これは嬉しすぎるわ)
布張りの箱の中に収まっていたのは、サファイアの首飾りだった。華奢すぎない細さの金のチェーンに、カップ咲きの花をかたどった座金の中央で青く輝くサファイアに、ジャスミンは目の奪われた。
「素敵……」
ジャスミンはうっとりしてつぶやく。
けれども、感激している彼女の後ろでイザベラはため息をこらえるのに必死だった。
(お嬢様ったら、ジャック様からなら何でもいいのね。ヴァルト王国の王族の贈り物にしては、あまりにもお粗末だわ)
マール共和国の富裕層でも入手できそうな首飾りだと、イザベラは冷静に価値を判断した。
(シェーラ様でも、もっと立派で繊細だったり豪華な首飾りを持っていたというのに)
ジャスミンの母の宝石箱を、ジャスミンに思い出してほしい。イザベラは、危うく神に祈りそうになった。
「喜んでもらえて嬉しいよ。本当は、もっと豪華な物を贈るべきなんだろうけど、それはまたの機会にしたくてね」
声も出ないジャスミンには、ジャックの贈り物というだけでどんな豪華な宝飾品よりも嬉しかった。
「でも、普段身につけておくなら、このくらいがちょうどいいと思ってね。……もちろん、君が気に入ってくれればだけど」
そう言って、ジャックは首飾りを両手で取り出す。
「つけてあげよう」
ジャスミンは、首を縦に振ることしかできなかった。
ソファーから腰を上げたジャックは、彼女の背後に回り込む。
予定外の訪問だったせいで、彼女の豊かな髪は背中に広がっていた。彼女は胸を高鳴らせながら、彼が首飾りをしやすいようにと髪を持ち上げる。
(本当に綺麗な髪だな。それに、うなじもそそられる)
生唾と一緒にジャックは邪な想いを飲み込んで、留め金をとめた。
「どうかしら?」
彼を振り返ったジャスミンは、少し恥ずかしそうだった。
「……いいと思うよ」
ジャックは、そう答えるのがやっとだった。
「ベラは、どう思う?」
「とても素敵ですよ」
不安そうに尋ねられたイザベラには、ジャスミンが故郷で外した聖石とそれほどかわらないと残念に思ったけれども、口にしなかった。
(そういえば、お嬢様の聖石は翡翠でしたね)
懐かしく思いながらも、やはり彼女はがっかりした。
ジャックがもといたソファーに腰を落ち着けても、ジャスミンは嬉しそうに首飾りのサファイアを指先でもてあそんでいた。
「君がよく胸に手を当てているのが気になってね」
「え?」
まばたきをしたジャスミンは、今まさにサファイアの上に両手を重ねたところだった。
「信徒だった頃の聖石がなくなって、胸元が寂しいんじゃないかとおもって……それで、代わりになるものをと作らせたんだが、気に入ってもらえたようで嬉しいよ」
「ジャック様のお心遣いが、わたくしは嬉しいわ。聖石には贅沢だけど、ええ普段から身につけさせてもらいます」
ジャスミンは、重ねた両手により力をこめた。
(ジャック様の瞳と同じ色の石なんて、狙ったわけではないでしょうけど、嬉しすぎるわ)
うっとりと目を閉じたジャスミンに、ジャックは喜びを感じずにはいられなかった。
彼女が考えた通り、サファイアはジャックの瞳の色に合わせて選ばれた石だった。彼女はまだ知らなかったけれども、ヴァルトン家から贈られる物には、青や黒の色が入っていることが多い。それは、多くの王族の瞳と髪の色だからだ。
(神に嫉妬したなんて知ったら、君はそんな顔をしてくれないだろうな)
ジャスミンが両手を胸に当てる姿を見るたびに、彼はまだすがっているのかと神に嫉妬していた。体が覚えてしまった習慣が残っているだけだと言い聞かせても、許せなかった。無自覚なのがわかっていたから、彼は何も言わなかった。その代わりに、自分の瞳に似た石で首飾りを作らせたのだ。
(こんなにも君のことを愛しているのに、言えないなんて、本当に情けない)
父のくだらないゲームなど、無視して全部彼女に打ち明けられたらどんなに楽になるか。誘惑に負けそうになったのも、一度や二度ではない。
(それでは、この十年が台無しになってしまう)
あと少しの辛抱だと言い聞かせるけれども、首飾りを喜ぶ彼女の姿は彼の決意を強く揺さぶった。
ジャックは咳払いをして、話を切り替えた。
「ところで、メリッサを見ないのだが、なにかあったのか?」
こんな時にメイドのことを気にするのはどうなのかと、イザベラが呆れたのは言うまでもないだろう。
我に返ったジャスミンは、イザベラの気持ちなんてまるで気がついていない。
以前なら、彼女もメリッサのことを気にされたら複雑な気分になっただろう。けれども、今はそんなことはない。メリッサなりに、応援してくれていると感じているのだから。
「メリッサなら、今日はお休みですわ」
「休み? あのメリッサが?」
信じられないと、ジャックは目を丸くした。
(俺のところにいたときは、一日も休んだりしなかったのに。信じられない)
メリッサは、ジャックの命令でも休みを絶対に取らなかった。暗殺者として自分を殺し続けてきた彼女が、人間らしさを学ぶまではしかたないと諦めていた。命令なしでは生きていけないほど道具だった彼女に、彼は人間らしくなってほしかった。ジャスミンにはとても言えないようなことをしてきた。融通の効かなさに腹が立って、彼女を投げ出したくなったことも少なくない。彼自身、なぜ自分に襲いかかってきた暗殺者に肩入れしたのか、わかっていない。彼女に同情したのかもしれないし、別に理由があったのかもしれない。ただ、時おり彼女が感情を見せてくれるのが、嬉しかっただけかもしれない。
(俺だけが、メリッサのすべてになってはいけないからと、雛菊館に送りこんで正解だったな)
ジャスミンが来てから、メリッサはどんどん変わっている。会うたびに、彼は自分の判断が正解だったと嬉しくなる。
もちろん、ジャスミンの身を守らせるため、雛菊館の様子を探るためといった理由もある。それらの仕事も、メリッサはしっかりとこなしてくれている。
それでもやはり、殺人の道具だったメリッサが人らしくなっていくのが一番嬉しいのだ。
メリッサの過去を彼女自身の口から打ち明けてもらっているジャスミンにも、ジャックが喜んでいるのはよくわかった。
「メリッサは女中頭ですもの。彼女に休んでもらわなくては、メイドたちにもよろしくないと、納得させましたわ」
「なるほど」
ジャックは納得するしかなかった。女中頭という立場を強調すれば、説得しやすかっただろう。それでも、メリッサがジャスミンを認めてなければ不可能だったに違いない。
「君が雛菊館の女主人になってくれて、本当に嬉しいよ」
「そんな……まだまだですわ」
照れてしまったジャスミンの手は、また胸元の首飾りに添えられる。
無意識の行為だとわかっていても、神の触媒ではなく自分の贈り物に手を添えられる。それだけで、ジャックは胸にくすぶっていた仄暗い感情が消えていった。
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