カラスの伝言
それはどこからどう見ても、カラスだった。
見覚えのある蛍石が輝くなめし革の首輪が巻いてあるけれども、くちばしまで真っ黒な体は、カラスだった。
そのカラスが、遠く離れた地にいるはずのリディアの声で喋っている。
「このカラスは、伝書バトのようなものよ。ギルにお願いして、手紙の代わりに声を届けてもらっているの。だから、伝言カラスと言ったところかしら」
「ごめん、何言ってるかさっぱりわからない」
「まぁ、突然、こんなこと言われても、何言ってるかさっぱりよね」
混乱するジャスミンはコクコクと小刻みに首を縦に振る。
「わたしも、声を届けるとか、いまいちピンとこないし。会話ができるわけじゃないから、黙って聞いてくれると嬉しんだけど。ジャズが驚いて悲鳴を上げていても、わたしは聞こえないんだから。つまり、これはあくまでも伝言なの」
「会話してるじゃない」
「ちなみに、今日は十一月十日よ。きっと、この伝言をジャズが聞くのは二三日経っているはずよ」
今日は、十一月十四日だ。
呆然としているジャスミンをよそに、リディアの伝言は続いていく。
「これは、奇跡の一つだから、秘密にしてくれないと困るって、ギルから言われているから、絶対に他言無用よ。神なき国に奇跡はないんだから。なんだったら、夢ってことにしてくれてもいいわ」
「夢って……なんだか、リディらしいわね」
奇跡のない国に、カラスが喋るという奇跡なんて、矛盾している。
(でも、よくよく考えてみれば、奇跡がまったく使えなかったら、リディはこの国の土を踏んだ途端に死んでいるはずよね)
もともとマール共和国では、神の奇跡と治癒は同意語だった。もっと豊かな国や、神聖帝国なら、もっと複雑で便利な奇跡の使い手がいるけれども、ジャスミンは治癒以外の奇跡を見たことがない。だから、神の奇跡がどういうものか漠然としか知らない。
「そんな細かいことはともかく、わたしは今、フラン神聖帝国で元気にやっているわ」
「細かいことって……でも元気ならそれでいいわ」
「あ、ジャズはきっと元気ならそれでいいと思っているでしょ」
「これ、本当にわたくしの声が聞こえていないの?」
脱力したジャスミンは、椅子を窓際に引いて、カラスが届けてくれた声に耳を傾けることにした。これほどリディアの弾んだ声は、初めてだ。元気だというのは、本当のことだろう。そうでなければ、見送った意味がない。
「健康な体を手に入れたのよ。今じゃ、多少の重労働くらいなんとかなるわ」
「あなたに重労働は似合わないわよ」
自分の声は届かなくても、ジャスミンはついつい口を挟んでしまう。
「今のわたしを見たら、きっとびっくりするでしょうね。神経質そうって言われてたのに、今ではどこが神経質なのかって信じてくれないの」
クスクス笑う声は相変わらずで、ジャスミンも釣られるように笑ってしまった。
「ジャズ、信じられないでしょうけど、わたし、以前ほど信心深くないの」
「嘘っ」
「そのくらい、こっちでいろいろとあったのよ。神聖帝国は、神なき国なんか比べものにならないくらい、妙ちくりんなところだったわ。詳しく話したいところだけど、話せないのが悔しいったらないわよ。ギルに止められているの。そのカラスだって、ギルのものだから破るわけにもいかない。それに、わたし自身が詳しく話して聞かせるのは、よくないことだと考えているの」
謎多き神の国については、どんな旅人も詳しく語りたがろうとしない。リディアもその一人になったということだろうか。
言い換えてみれば、リディアはそれだけ神聖帝国に馴染んでいるということだ。ジャスミンにとって、喜ばしいこと以外の何物でもない。
「そうそう、ギルっていうのは、わたしの身元引受人になってくれたオッサンのことよ」
「オッサンなんて、リディが言うなんて思わなかったわ」
「ギルと一緒にいたら、お硬い敬虔な信徒だって、口が悪くなるわよ、まったく」
リディアがオッサン呼ばわりしたギルが、大河を渡り亡命した六王子の一人に違いない。
「いろいろなことがあったのよ、本当に。今は、ようやく落ち着いたところ」
「じゃあ、新生活は順調なのね」
「まさか、わたしなんかが皇帝陛下にお目通りするはめになったなんて、信じられないでしょ?」
「皇帝陛下に? 信じられないわよ」
「わたしだって、たまに全部夢だったんじゃないかって考えるわ」
リディアが苦笑して肩をすくめたのがわかった。
「皇帝陛下も、思っていたのとぜんぜん違うの。びっくりよ。信じられないこと続きで、もう驚かないと油断しないでよ、ジャズ。わたし、今、マオ様の側仕えになっているの。あ、マオ様ってのは、皇帝陛下の弟殿下のことよ」
「すごいことになっているってことだけは、よくわかったわ」
自分とは違って、リディアの新しい人生は順調のようだ。その順風満帆な人生を、我がことのように喜びつつも、自分の現状をかえりみてしまう。
「マオ様は、外国から来たわたしが珍しくて、故郷の話とかすごく聞きたがるの。わたしたちにとって当たり前なことでも、驚いたり笑ったりとか、無邪気な人なの。反応が面白くて、わたしもついついたくさん話しちゃうのよね。そうそう、ジャズのことも話したわ」
「ちょっと、何を話したのよ」
なにかおかしいことがあったのか、リディアはクスクスと笑いながら続ける。
「マオ様ったら、ジャズのことをすっかり気に入ってしまって、結婚したいとか言い出して大変だったのよ」
「リディ、あなた何を話したのよ」
げんなりした声をあげつつも、神の代理人である皇帝の弟殿下に気に入ってもらえるのは、まんざらでもなかった。
「それで、ジャズは神なき国の王太子以外の男は眼中にありませんって言ったら、ものすごくがっかりしていたわ」
「リディ……」
リディアが言ってくれたほど、今の自分はジャックのことを信じられていない。
「マオ様も、ジャズがどんなにジャック様にぞっこんか話して聞かせたら、さすがに呆れて諦めてくれたわ」
クスクス笑うリディアは、本当に楽しそうだ。
(それに比べて、わたくしときたら……)
どうしてこうなってしまったのだろうかと、ジャスミンは顔を曇らせる。
「でも、うらやましがっていたわ。十年も会っていないのに、ジャズが虜にしたいって自分を磨き上げてくれるなんて、ジャック様は幸せ者だって。だから、幸せにできないようなら、その時はってね。わたしもその時は、マオ様を応援するわ。でも、マオ様が結婚するなんて、皇帝陛下が転ぶよりも想像できないけどね」
「リディ……」
なぜか、胸が熱くなってきた。両手を添えた胸元には、何もない。けれども、その奥にはこみ上げてくるような熱があった。
「リディ、わたくしは……」
こみ上げてくるような熱を言葉にしようと喉を震わせている間にも、リディアの弾む声は続いている。
「わたしも、ジャズ、あなたが幸せにならなかったら、怒るわよ。あなたは、ジャック様に夢中よ。でもね、余計なお世話かもしれないけど、ジャズはもっとジャック様のことを信じるべきよ」
「えっ?」
ジャスミンは目をしばたかせる。
「そうでなかったら、きっとジャック様もジャズを信じられないと思うのよ。というか、わたしの目には、ジャック様もあなたに夢中に見えるの」
「嘘よ。そんなはずないわ」
「嘘だと言うかもしれないし、わたしが間違っているかもしれない」
でもねと、優しく諭すようにリディアは続ける。
「でもね、もうそろそろジャズも素直に気持ちを伝えてもいいんじゃないかしら。もう上手くいっているなら、聞き流してくれればそれでいいわ。けど、負けず嫌いのジャズと、鈍感なジャック様じゃ、きっとまだ上手くいってないんでしょう? だから、もういい加減、意地を張ってないで素直に好きだって言いなさい。そうしたら、案外うまくいくかもしれないわよ」
「でも、リディ、わたくしわからなくなってしまったの。本当に、ジャック様のことが……」
ジャスミンの滲んだ視界には、黒いカラスではなく、本物のリディアがいた。
胸の奥からこみ上げてくるような熱は、喉と口を通り過ぎて、先に涙となって目から溢れ出ている。
「ジャック様がその気じゃなかったら、十年間、どれだけジャック様を虜にするために努力してきたのか、ぶちまけてやればいいわ。それでも、あなたの愛が伝わらないようだったら、どうしようもないけど、きっとそうはならないわ。わたしは、そう確信しているの」
「リディ……わたくし……わたくしはぁ……」
こんなにむせび泣いたのは、久しぶりのことだった。
子どものように顔をクシャクシャにして泣くことなんて、もうないと思っていた。
「春になったらわたしの耳にも噂が聞こえてくるくらい届くくらい幸せになりなさいよ。約束、覚えているわよね。誰もがうらやむような仲睦まじい結婚式にするって」
余計なお世話だったかもしれないけどと、リディが肩をすくめるのが見えた気がした。
「言いたいことはこのくらいかな。あ、そうそう、忘れていたわ。この伝言カラス、一度だけってギルと約束しちゃったから、もう二度とわたしの声を聞くことはないはずよ」
「……ぞんなぁ」
情けないことこの上ないのに、ジャスミンはまだ泣いていた。そんな彼女の耳に、さみしげなリディアの声が届く。
「本当は、ジャズに会いたいわ。結婚式だって、この目で見たい。でも、無理だってわかっている。わたしのしたことを、ジャック様たちが許してくれても、快く思わない人はいるはずよ。もう二度と、誰かに利用されたくないの。だから、これが最後よ、ジャズ。わたしは、元気にやっているわ。だから、あなたも元気に……幸せなお妃様になってね。さようなら」
「待って!!」
思わず叫んで手を伸ばしたけれども、空を切っただけだった。窓枠に止まっていたはずのカラスは、そこにいなかった。涙を拭って、窓から身を乗り出しても、影も形もない。
「夢……だったのかしら?」
狐につままれた気分で窓を閉めようとした手が止まる。
「いいえ、夢ではなかったのね」
窓際に落ちていたカラスの羽根を、拾い上げた。
「ありがとう、リディ」
きっと誰も信じてくれないだろう。それでも構わない。
「あなたのおかげで、目が覚めたわ」
羽根を傷つけないようにハンカチで包み込んで、机の上に静かに置いた。
「悩むことなんて、なかったのよ」
自分に言い聞かせるために、ジャスミンは真っ直ぐな声に変えてまだ残っている熱を言葉に変えた。
「わたくしは、ジャック様を虜にするって決めていたじゃない。そうよ、わたくしの相手はジャック様でなければならないのよ。他の男と結婚するなんて、絶対に嫌」
言葉にして、ジャスミンは自分の気持ちがよりはっきりしていくのを感じた。
「わたくしは、ジャック様が好きなの。失礼なところもあるけど、なんだかんだで優しいジャック様が、好きなの。ジャスミン・ハル、何を悩む必要があったのよ。あの男が嫌なら、ジャック様の力なればいいじゃない。意地なんか捨ててやるわ」
体が軽くなった気がした。
「でも、ジャック様に好きだと言う前に、やることがあるわよね」
すっきりとした頭で、もう一度先ほどの怪しい手紙を広げる。今なら、なんだってできそうな気がしている。もちろん、そんなはずはないことくらい、彼女はわかっている。
(でも、けじめをつけないといけないわ)
イザベラが戻ってきた気配に、ジャスミンは急いで手紙を書き損じの紙束の中に隠した。
「お待たせしました」
「遅かったわね」
そうですかとウキウキとワゴンを押してくるイザベラは、早速ジャスミンに本を貸そうとティーセットと一緒にワゴンに乗せてきたのだ。
(それにしても遅いのは、やっぱりカラスのしわざかしら)
だったらいいなという希望もこめて、ジャスミンは笑う。そんな彼女の変化に、祖国から付き従ってきたイザベラが気がつかないはずがない。
「お嬢様、どうかしたんですか?」
「つまらないことで悩んでいたのに気がついただけよ」
「それは、なによりです、お嬢様」
そう言って、イザベラはジャスミンに本を渡す。
「これが、百合小説、ね」
「はい。短編集ですから、忙しいお嬢様も読みやすいはずですわ」
「わかったわ、ゆっくり読ませてもらうわ」
それから徹底的に批判してやろうとジャスミンは心のなかで続けた。
「そうだ、イザベラ。ジャック様からいただいた首飾り、持ってきてちょうだい」
「かまいませんけど、お茶のあとで……」
「首飾りが先よ。やっぱり、胸元に何かないと落ち着かないのよ」
それが、ジャックと瞳の色と同じサファイアの首飾りであれば、なおさらいいと彼女は素直に思った。
「かしこまりました。今すぐに、持ってきます」
イザベラがいなくなると、ジャスミンはもう一度例の手紙を取り出して、イザベラから借りた本に挟む。その顔つきは、先ほどまでと別人のように厳しかった。
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