病床の国王

 神なき国。奇跡を拒む国。人間の国。呪われし国。神から見捨てられた国。

 ヴァルト王国の異名は数え切れないほどあるが、王国の民は胸を張って祖国をこう呼ぶ。

 医療の国、ヴァルト王国と。


 フラン神聖帝国の奴隷だった男がヤスヴァリード教の神を否定し立ち上がったのが、神なき国と呼ばれるヴァルト王国の歴史の始まりだ。その奴隷だった男ロバートは、存命中に神聖帝国からの独立は果たせなかったものの、英雄王としてその偉業は語り継がれている。


 建国から、五百年あまり。

 はじめの百年は、神の信仰を捨てた異端の国として、神聖帝国からの侵略が続いた。後に、神聖帝国と並ぶほどの大国となるのだが、始まりは決して順調とは言えなかった。

 ヤスヴァリード教の神の奇跡の一つに治癒があったこと、たいていの軽い病や怪我は、神に祈れば治ってしまうのだから、神聖帝国では医学がおざなりだった。それこそが、神も恐れぬ愚者の国と忌み嫌っていたヴァルト王国を発展させる要因となったのは、今では誰もが知っている。医療そのものだけでなく、薬草とともに農作物も品種改良が進み、医療器具の改良の副産物として印刷機を始めとした機械も生み出された。

 国土は、神聖帝国とは比較にならないほど小さな国だ。けれども、かつて魔女と悪魔の術と迫害してきた知識が、ここまで大きな国に発展させたのだ。

 やがて周辺諸国からも一目置かれる存在となり、五百年がすぎる頃には、神聖帝国と並ぶほど豊かで平和な国となった。それはつまり、大陸の南北に連なり東西に分断している黄金山脈の西側――カロン大陸西部における、覇権国家と呼ばれる日も来るかもしれないということを表していた。もっとも、建国から五百年が経つ今では、大陸西部一の大国だと言うものも少なくない。だが、西部の多くの国で奇跡を与えてくれるヤスヴァリード教の中心地となる神聖帝国を超えているなどとは、いまだに軽々しく口にできるものではない。


 医療の国であるヴァルト王国の現国王コーネリアス・フォン=ヴァルトンは、皮肉にも歴代の国王の中でもすこぶる体が弱かった。

 生まれながらにして、発作を繰り返して何度も生死の境をさまよってきた彼は、御年四十二歳。大人になれないと言われていた彼が、この歳まで生きたのは奇跡と呼ぶ者もいる。神の奇跡がもたらされることのない国だというのにだ。コーネリアスは、まさに皮肉が命を得たような男だった。


 半年前、数年ぶりの大きな発作で倒れてから、コーネリアスは療養に専念している。つまり、彼が臣民の前に姿を見せなくなって、半年が経っている。もう崩御したのではないかという噂もあったが、確かめるすべを持つ者は限られていた。どんな口さがない噂が広まろうとも、王太子ジャックが今まで通り国を治めている。ひと月もすれば、人々は噂をすることはなくなった。結局のところ、国民は不安だっただけなのだ。コーネリアス王が与えてくれた平穏が崩れて、先代の狂王が支配していた暗い時代に戻るのではと。

 さらに、ひと月経つと、王太子の結婚の噂が広まった。その噂が、まだ先のこととはいえ確かなことだとわかると、国中が未来の王妃の話題でもちきりになった。

 国中で、異国の赤毛の姫君がどんな人なのか、あることないこと語られない日はなかっただろう。ジャスミン・ハルの絵姿は飛ぶように売れたし、マール共和国からやってきた旅人は、それはもう歓迎された。

 それほど、国民は新しい次期王妃に期待し、熱狂していた。

 もちろん、それにはちゃんとした理由がある。



 花の都アスターの東、大陸を東西に隔てている黄金山脈の裾野を背にして、ヴァルト王国の権威の象徴ヴァルトン城がそびえ立っている。

 しかし、ヴァルトン城と呼ぶものは少ない。ヴァルトン城は、国を治めるための輝耀城と、王族が住まう月虹城の二つから成り立っている。さらに月虹城は、四つの館とそれらが囲む広大な庭園から成り立っている。

 月虹城の北の館――つまり、国王の館である月桂樹館の寝室で、コーネリアスは一人息子の許嫁の到着の報せを聞いたのは、予定よりも若干早い昼前のことだった。


 短いねぎらいの言葉で近侍を追い払ってから、コーネリアスは呆れたようなため息をついた。


「歓迎するのは結構だが、こうも浮かれるのはどうかと思うんだが」


 若い近侍の浮ついた気分は、とう衝立ついたてを隔てても嫌というほど伝わってきた。彼に限ったことではない。ここ数日、この館全体の空気が浮足立っていた。月虹城の西の館――つまり、王妃の館である雛菊館の新しい女主人の話題で盛り上がるのは大いに結構だが、いつまでも浮かれられたままでは困る。


(ここはひとつ、わたしが……)


 コーネリアスは、チェス盤に並べ終えた白のポーンを取り上げてほくそ笑んだ。


「冗談でも、発作を起こさないでくださいな」

「あー……」


 考えを先回りされ、なおかつ釘を刺されてコーネリアスは、車椅子の背もたれに沈みこんだ。


「ダメ?」

「ダメです」


 衝立を壁に寄せてきたアンナは、きっぱりと言い切った。


「いや、もちろん仮病でね」

「ダメなものはダメです」


 年上のメイドは、普段は優しいタレ目がちな深緑の目をつり上げて腰に手を当てる。彼女は、コーネリアスが死に損ないの末の王子として世間が見向きもしなかった頃から支えてきてくれた。まるで聞き分けのない子供を相手にしているようだが、相手は国王だ。


「半年前は、協力してくれたじゃないか。だから……」

「ダメです」


 まだ食い下がるコーネリアスを、チェス盤越しにアンナは睨みつける。コーネリアスも負けじと睨み返した――わけではなかった。


(白髪が増えたな)


 視力が残っている右目を細めて、アンナの焦げ茶の髪をひっつめたまげに混ざる白髪を見ていた。それから、怒った顔も可愛いとこっそりのろけていた。


「わかった。わかったよ、アンナ。わたしは、

「何もしない?」


 肩をすくめて、コーネリアスは白のポーンを中央に送り出した。


。これは、ジャックのゲームだからね」

「コニーがそう言うなら、そうなんでしょうね」


 長年支えてきたとはいえ、アンナはメイドだ。コーネリアスのような頭脳は、持ち合わせていない。チェスの相手をしてほしいとせがまれて、ルールは覚えたものの、とても相手など務まらなかった。


(ゲーム、ねぇ。何を考えているのか、さっぱりだわ)


 一人でチェスをするコーネリアスを横目に、彼女はベッドのシーツを取り替えていく。

 二十三年ぶりの雛菊館の新しい女主人が、アンナは少しだけ心配になった。

 いくら病弱な体だからとはいえ、コーネリアスが形式だけでも王妃を迎えていれば、ジャスミンもこれほど熱狂的に迎えられることもなかったはずだ。ましてや、過去に国外から迎えられた王妃は、二人しかいない。どちらも神への信仰心を捨てきれず、かえって王妃個人と王妃の祖国との関係を悪化させている。だから今回はあらかじめ信仰を捨てることが、絶対条件だった。それでも不安の声よりも歓迎の声が上回ったのは、おおらかで楽観的な国民性によるところが大きい。


(うまくやっていけるかしら)


 けれども、アンナは不安のほうが大きかった。

 ベッドでコーネリアスを支えるクッションの位置を直して、小さなため息をつく。

 彼女の不安を感じ取ったのか、コーネリアスは顔を上げた。


「アンナも、見てきたらいい」

「わたくしに、野次馬になれというの?」

「いや、そういうわけではないが、アンナも確かめたいだろう。ジャックにふさわしい嫁かどうか」


 コーネリアスの気遣いの方向は、微妙にズレていた。アンナのクッションを掴む手に力がこもる。投げつけてやりたい衝動を、盛大なため息に変えて吐き出す。


(コニーったら、まったく……いち、にい、さん……)


 七つ数を数えて冷静になろうとしている彼女に、コーネリアスは子供のようにビクついた。


「アンナ、怒ってる? なにか……その……」


(……ろく、なな)


 心の中で七つ数えたアンナは、大きく息を吐いて腰に手を当てた。


「あのね、コニー」

「は、はい」


 向き直るとおずおずと見上げてきたコーネリアスに、精神的な負担はよくないとわかってる。だが、はっきりしておくべきことは、はっきりさせなければならない。


「わたくしは、たしかに不安ですわ」

「だから、その目で……」

「コニー」

「はい、黙ります」

「よろしい」


 コーネリアスは、アンナに頭が上がらない。

 未婚の王で、狂王の腐敗を精算した実利の人が、頭が上がらないただ一人の女性。それが、国王付き筆頭侍女アンナ・カレイドだった。かつて、もう一人だけ頭が上がらない人がいたが、今はもういない。

 いよいよアンナは、腰に手を当てて子どもを相手にするようにゆっくりはっきりと言い聞かせてきた。


「わたくしが不安なのは、異国のお嬢様が雛菊館の女主人がつとまるかということ、ただそれだけよ。ジャック殿下にふさわしいかとか、心配しておりません」

「…………」

「わかりましたか?」


 コーネリアスは、アンナの強い視線から逃げるように、チェス盤を見下ろしたが、首を縦に振らない。


「でもアンナ、ジャックはお前の息子でもあるんだよ」


 口を尖らせた彼は、普通は息子の嫁を気にするだろとか口の中で続ける。もう、チェスを再開する気は失せていた。

 アンナは、がっくりと肩を落とした。


(それでも、わたしは一介のメイドだというのに……)


 今までも、決して分かり合えない身分の壁を感じてきた。

 最愛の人と寄り添い支えてきても、生まれ持った考え方がまるで違う。王太子のジャックは、彼女がお腹を痛めて産んだ息子だ。けれども、ジャックの出生証明書には、母の名前は記されていない。コーネリアスが私生児でありながら、月虹城の南の館――つまり、王子王女の館である柊館の住人と認めたときから、彼女にとってジャックは他人のような存在だった。ときおりジャックの成長ぶりを誇らしく思うときもあるが、それは王太子の成長を想う一国民としての感情だった。


 コーネリアスは、決して鈍感ではないし、無神経でもない。軽い白木のクイーンをもてあそびながら、最愛の人の主張を尊重することにした。このままでは、どうにもならないと蓋をしてきた感情が溢れ出しそうだった。当然のことだが、彼も好き好んで最愛のアンナをろくに抱きしめられないような体に生まれてきたわけではない。


「雛菊館の女主人は、月虹城の華だ。華は、咲いてこそだ」

「まだまだつぼみですものね」


 コーネリアスは、ふっと口元に笑みを浮かべる。


「さすがに泣き虫ではないだろうが、固く閉じた蕾だ。春までに咲かせられないようでは、ジャックに王にふさわしくない」

「それは……」


 呆れとも困惑ともつかない息をついたアンナは、つとめて明るい声で続けた。


「それは、王太子殿下には難しすぎるゲームね」

「だろう? まずは、ぎこちない序盤戦オープニングから楽しませてもらうつもりだ」


 ククッと喉を鳴らしたコーネリアスは、すぐに咳きこんだ。

 大事には至らないとわかっていたが、アンナは大声で医者を呼んだ。今日の当番医は、アンナにうながされるままに彼を弱々しく抵抗する寝かしつけた。どのみち、もうしばらくすれば、昼寝の時間だ。それが少し早まっただけのこと。嗅ぎ薬の力を借りれば、コーネリアスはすぐにおとなしくなった。


(しばらくは退屈しないでしょうし、今はおとなしく寝ていればいいのよ)


 アンナはカーテンを閉める手を止めた。


(ようこそ、神なき国へ)


 コーネリアスを起こさないように、歓迎の言葉を口にしない。本当は不安と同じくらい、アンナは期待している。彼女もまた、おおらかで楽観的な神なき国の民だった。

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