ジャスミン 〜政略結婚でも、愛し愛されたい!〜

笛吹ヒサコ

序章

沈丁花の思い出

 始まりは、十年前。

 よく晴れた春の日のことだった。


 七歳のジャスミンは、夢のような世界にいた。

 今までの短い人生の中で経験したこともない長い長い旅の末にたどり着いたのは、春の花々が咲き乱れる美しい庭園。

 神がいない恐ろしい国だと、怖い顔をした母から聞かされていた。けれども、まるで神がいる天上の楽園のようだと、ジャスミンは夢見心地だった。


(おかあさまも、くればよかったのに)


『神の信徒であるわたしたちの娘が、あんな罪深い国に嫁ぐなんて考えただけでもう……わたしは反対ですからね』

 なぜ母が怖い顔をしたのか、ジャスミンが理解するにはもう少し歳を重ねる必要があった。

 彼女は小さな口を尖らせたが、そう長くは続かない。異国の楽園は、見るものすべてが珍しかったからだ。

 春の陽気にふさわしい甘すぎない香りを、ジャスミンは小さな胸いっぱいに吸いこむ。その香りは、どうやら青々とした樹木に咲いた白く小さな花から漂ってくる。ジャスミンが大人たちと待っている石造りの四阿あずまやを囲むその樹木が、沈丁花と呼ばれていることを、ジャスミンはまだ知らない。そして、その沈丁花がこの四阿あずまやの名称の由来となっていることも、知らない。そもそも彼女は、この四阿の名称を知らない。そんなことまで気にしている余裕など、彼女にはなかった。

 フワフワと飛んできた白に黒の斑点のある蝶を若草色の瞳で追いかけて、姿は見えない小鳥の可憐なさえずりに耳を傾けて、白っぽい四阿の柱の蔦のレリーフを指先でなぞる。

 何もかもが、七歳の少女には珍しかった。


 大きくなったらこんな夢のような庭園のお妃様になるなんて、夢みたいだ。

 けれども、夢ではない。それは、大人たちがすでに決めてしまった自分の未来だ。

 まだ幼いジャスミンには、新国である祖国と、大陸西部で一二を争う大国との関係はまだ難しすぎた。ましてや、そこに歴史や信仰が関わってくるのだから、そもそも大人たちは彼女が相手に気に入られればそれでよかった。いや、気に入られなくてはならなかった。


 夢のような庭園も走り回れたらさぞかし楽しいだろうが、そういうわけにもいかない。不満と退屈が、心躍らせた期待を塗りつぶすのに、それほど時間はかからなかった。もともと好奇心旺盛でじっとしていられない性格だったことを考えれば、ジャスミンにしてはよくおとなしくしているほうだ。

 それもこれも、未来の旦那様に気に入られるため。

 いったいいつになったら未来の旦那様はやってくるのだろうかと、憂鬱をため息にかえて吐き出す。


(ジャズ、もうすぐおうじさまがくるから)


 いっそのこと父にいつになったら来るのか、尋ねてみようか。


(だめよ、ジャズ。ばあやが、おしゃべりしたら、おうじさまにきらわれちゃうって。ばあやがかたをぽんぽんしてくれるまで、しゃべっちゃだめなの…………)


 この日のために誂えたタンポポ色のドレスのスカートを、ぎゅっと握りしめようとして慌てて手を開く。スカートに変なシワができたら、王子様に嫌われてしまうかもしれない。


(……つかれた)


 きつく結い上げられた赤毛の上の白金の繊細なティアラが、うっとうしくなってきた。お腹も空いてきた。今夜の晩餐会でごちそうが食べられると聞いていたから、我慢してきた。けれども、そろそろお腹の虫も限界だ。


 父がいら立たしそうに、首筋をかきむしる。

 ジャスミンは思わず首をすくめた。父がイライラしたときは、嵐が過ぎ去るのを待つように、じっとしていなくてはならない。兄たちが身をもって教えてくれた。


「…………遅い」


 忌々しげに吐きすてた父を、髭のなんとかというおじさまがなだめている。

 ばあやを見上げれば微笑んでくれるけど、困りきっているのがジャスミンにもはっきり伝わった。


 ジャスミンが知っている大人たちは、父とばあやを入れて五人。

 四阿の外には、お人形のように直立不動の兵隊さんが四人。彼らは、この庭園の兵隊さんだと、彼女はなんとなくわかっていた。


(はやく、こないかなぁ)


 空腹と、着慣れない袖口が大きなドレスに、重たい銀のティアラ。

 もう春の陽気は、ジャスミンの憂鬱を拭い去ってはくれない。あれほど輝いていた庭園も、すっかり色あせてしまった。

 うつむいてはいけないと、きつく言われていたけれども、気がつけば白い石の床を見つめている。ドレスの裾が邪魔でみえないけれども、淡いピンクの絹の靴を履いている。もちろん今日初めて履く靴だ。この靴を履く日を、あんなに楽しみにしていたのが嘘みたいだ。

 ジャスミンは、憂鬱だった。けれども、子ども特有の敏感さで、大人たちに緊張が走ったのがわかった。


 ようやく、未来の旦那様がやってきた。

 ジャスミンは、期待をこめて顔を上げる。


(あの子が、ジャックさま)


 向こうも五人の大人たちに囲まれるようにしてやってきた男の子を目にした瞬間、ジャスミンの憂鬱は綺麗さっぱりなくなった。

 それほど広くない四阿は、急に窮屈になった。けれども、ジャスミンはすっかり未来の旦那様に釘付けで、大人たちの会話すらも耳に届かなかった。


(かっこいい)


 シミひとつない白のジャケットに空色のサッシュをたすきがけした正装を、未来の旦那様は堂々と着こなしている。二人いる兄のうち下の兄と同い年だと聞かされている。けれども、彼こそが本物の貴公子だと、ジャスミンは胸を高鳴らせた。

 背中まであるつややかな黒髪は、一本の三つ編みに結わえられて左の肩から前に流している。不機嫌そうだった藍色の目は、ジャスミンを映すなり、大きく見開かれていった。まるで、ジャスミンの存在が珍しいとでも言わんばかりに。

 嫌われないように笑顔でいなさいと言われたから、笑っていようとしたけれども、だんだん難しくなってきた。

 ますます大人たちの会話が耳に届かなくなる。

 本物の貴公子は、まるで珍獣を目にしたかのように驚き固まっていた。とてもとても、友好的とは言い難い視線に晒されているジャスミンは、だんだん怖くなってきた。


(わたくしのかおに、なにかついているのかな)


 怖くて怖くて今にも泣き出したいジャスミンに、異国の王子はまだ硬直している。


「ジャック、いつまで黙っている?」


 冷ややかな声が、杖を持った青白い肌の男から浴びせられて、ジャックはようやく我に返った。呼吸をすることも忘れて固まっていた彼は、大きく息を吸って、未来の妻にこう言った。


「お前、人間、か?」


 あたりの空気が、凍りついた。


 ジャスミンは、もう限界だった。


「ぐずっ、ぐすっ……」


 慣れないドレスを着て、重たいティアラを頭に乗せて、夕食のご馳走のために昼食を控えめにして空腹にも耐えていたというのに、これはあんまりすぎた。

 よりにもよって、期待に胸を膨らませていた未来の旦那様から、珍獣のように見られて、人間に見えないとはっきりと言われてしまった。


(わたくし、にんげんだもん、ばけものじゃないもん)


 そう叫んだつもりだった。けれども、彼女の耳に届いたのは自分でもびっくりするような泣き声だった。


「ふぇええええええええええええええええええええええん」


 大声をあげて泣きじゃくるジャスミンを、ばあやが抱きしめてなだめようとするけども、無駄だった。

 泣き止み方を忘れてしまったジャスミンは、ひたすら声をあげて泣いた。まるで、そうすることで、期待を裏切った未来の旦那様を自分の世界から締め出そうとしているようだった。


 泣き疲れたジャスミンが、ばあやの腕の中で我に返ったときには、他の大人たちは誰もいなかった。もちろん、あの失礼極まりない貴公子もいなかった。

 その夜の晩餐会は中止。ジャスミンは結局そのまま未来の旦那様と顔を会わせることなく、夢のような庭園を持つヴァルト王国を離れることとなった。




 大国である神なきヴァルト王国の王子と、王制崩壊後に共和国となってまだ八十年という海洋国家マール共和国の最高権力者の娘の初顔合わせは、王子のひと言で失敗に終わった。

 立場が逆であれば、マール共和国の最高権力者ダニエル・ハル議長は愛娘を侮辱したと破談にすることもできただろう。神なき国とはいえ、相手は歴史ある大陸西部の覇権国家フラン神聖帝国をしのぐかというほど豊かな国だ。

 幼い本人たちとその周りの大人たちが内心どう思おうとも、婚約は成立したままだ。


 帰国したジャスミンは、未来の旦那様を嫌いになっただろうか。

 別の男と結婚したいと子どもらしく駄々をこねただろうか。

 失礼極まりない相手と、胸を膨らませていた期待を切り捨てただろうか。

 敬虔なヤスヴァリード教の信徒でなければ、多くの女性が憧れるような話だ。相手の寵愛を独り占めすることを望むのは、欲張りだと割り切るべきだと、彼女の周囲の人々は考えた。

 ようするに、周囲の人々は諦めなさいと諭そうとしたのだ。


 けれども帰国するころには、ジャスミンはいつもの元気すぎる少女に戻った。


 そして、ことあるごとに彼女は人生最悪のできごとを語り、最後に必ずこうしめくくる。


「わたくし、心に決めましたの。ジャック様が愛さずにはいられない立派なレディになってみせると! ええ、ええ、浮気すらさせないくらい、わたくし、絶対にジャック様をとりこにしてみせますわ」


 沈丁花に囲まれた四阿での初顔合わせから十年後の八月二九日、ジャスミン・ハルは再びヴァルト王国の花の都アスターに向かう馬車の中でも、そうしめくくった。もちろん、目の前の二人の聴衆は、聞き飽きた話だ。

 それでも今日は特別な日だからと、ジャスミンの気がすむまで話をさせている。いや、ただ単に、話をさえぎるのがめんどくさいだけかもしれないが。


 今日は特別な日だ。

 二十日間に渡る旅を終えて、ジャスミンは王城で王太子ジャック・フィン=ヴァルトンと再会することになっている。


 初対面の男の子から直接ではないけれども、化物呼ばわりされた悔しさと怒りで、ジャスミンはとびきりの美女になって見返してやろうと心に決めていた。

 一度彼女についた決意の火は、彼女の豊かな赤毛のように鮮やかに燃え続けている。この十年一度も消えることのなかった火が、はたしてこれから婚礼までの半年間燃え続けられるだろうか。


 今日から、ジャスミンはヴァルト王国の王城で暮らすこととなるのだが、ジャック王太子との結婚するはまだ半年も先のこと。

 もちろん、結婚の半年も前に婚約者が王城の住人になるのは、異例のことだ。




 神なき王国の王子ジャックと、新国から嫁ぎに来たジャスミン。

 二人の物語は、こうして再び動きだす。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る