第16話 悪魔


「お前は……誰だ……」


 混乱の末に出た言葉。だが頭の中では別の言葉が木霊する。


 ――ありえない。


「綾斗……私はとんでもない読み間違いをしてしまったのかもしれません」


 頭を抱え、瞳を震わせるヴィアンテ。


 ――読み間違えた?


 彼女の言っている意味が分からない。


 狼狽ろうばいに伏す二人に冷笑を浴びせる少女。その眼に悪意の赤が灯る。


「くくく……、ここまで辿り着いたご褒美ほうびに教えてあげる。私こそが本物の魔女。でもこの呼び名は好きじゃないの」


 透明なワインレッドのシュミーズドレス。ショルダーフリーのロングスリーブには精緻なレース模様。本来は下着で覆うべき箇所は二本の捻じれ角を模したボディーペイントで隠される。


 少女は肩に掛かった金色のツインテールを愛撫しながら、幼少の見た目に似つかわしくない口調で悠然と名乗った。


「女悪魔ベルフェゴール。それが……私の真名」

 

 顔色を戻しつつあるアリシアに確かな愛しさを感じつつ、ヴィアンテは決断する。


「綾斗! 間違いありません。彼女こそが全ての元凶。預言に記されていた悪魔です!」


「なら、俺が殺そうとしたのは――」


「そう、そっちが本物のアリシアちゃん。私のダミー人形。全く役に立たなかったけれど」


 ――なら、悪魔が宿っているのはいったい誰の……。


 綾斗は動けなかった。

 何が起きているのか理解できない。このままでは戦えない。


「ヴィヴィ、俺はどうすればいい⁉」


 パニックに陥る寸前で狼狽を吐き出す。


「悪魔を……殺してください」


 そう答えるヴィアンテの表情は暗いが、瞳の奥に覚悟を秘めていた。

 今信じられるのはヴィアンテの言葉だけ。

 綾斗は静かに頷き、不必要な寛恕かんじょを冷たい臓腑ぞうふに落とし込む。


「あら、この私とやるつもりなのかしら。まあいいわ……相手してあげる。私の計画を踏み潰した報いを受けなさい!」


 ベルフェゴールは赤色の瞳を怪しく光らせ、詠唱を開始。艶めかしい指先をゆっくりと持ち上げる。


「来るぞ、ヴィヴィ。前方に防御壁を!」


 ヴィアンテも詠唱を開始。先に句結したのは、


「ラ・ルミエレ・デ・ラ・ファン」


 愛の言葉を囁くように唱えられたのはアリシアが放った終焉の光と同じ式句。

 アリシアのそれは今も綾斗の目に鮮烈せんれつに焼き付いて離れない程の壮麗さ。だが、ベルフェゴールのそれは美しさなど欠片も無いいびつさを虚空という名のキャンバスに描く。

 痛みにのたうち回るように暴れるフィブリルが無理やりねじ込まれ、一本の極大の柱――もはや、極厚の光の壁へと変貌していく。


 ほぼ同時にヴィアンテの防御壁も完成した。だが――。


 本能に訴えかけてくるような直感に従い、綾斗は右手を伸ばす。


 瞬間、ほとばしる閃光。白黒入り乱れる雷電霹靂らいでんへきれき

 威力と範囲がアリシアのそれより遙かに上位互換。


 対してヴィアンテの重力壁は余りに小さく、飲み込まれ、こぼれた光が二人を襲う。


 ――マスターアーム。


 伸ばした右手に衝撃が走り、咄嗟に左手を添える。強力な重力で束ねられた光がほどかれ、鞭のように暴れ狂っては天井や壁を打ち付け赤熱させる。


 ――く、重いッ。グラヴィトンに干渉している所為か。……だが、凌ぎきれる。


 半分は虚勢。残りは決意。少しでも負のイメージに傾いてしまえば、何もかもが跡形もなく消えてしまう。そんな予感を信じたくなくて、消えろ、消えろと念じ続ける。


 ――仄暗い松明だけでこの威力。もし、夜が明けてしまったら……勝機など……。


 左袖の時計を周辺視野だけで確認すると五時五十九分〇〇秒。あと一分以内に勝負をつけなければ敗北は確定する。


 ――負ける訳にはいかない。この偽りの命だけでは到底償い切れない物を背負っている。ここで諦めてしまえばヴィアンテとアリシアは光に飲まれ命を落とし、いずれはスグリや騎士達、まだあった事もない善良な人々も魔の手に落ちる。


 ――そして何よりエソラだ。


 ――彼女だけは何があっても失う訳にはいかない。そう聡次郎に誓った。

 そして……自分自身に。


 その祈りが届いたのか両腕から伝わる勢いが弱まり始めた。


 ――これが恐らく最後のチャンス。何としてでも活路を見いだせ。


 光の壁越しに周囲の状況を確認する。


 身を隠せそうな遮蔽物、魔女の立ち位置。

 あらゆるアプローチの可能性を脳内でシミュレーションしていた綾斗はある突飛な閃きに震撼しんかんした。


 ――これは……偶然か。


 例えるなら神の手の内で踊らされているような――超自然的な何かの存在を、狂信者の妄言を、今なら容易く受け入れてしまえそうな心境。


 もはや強迫観念。本能が信じろと言っている。


 綾斗は狂気じみた笑みを浮かべ、確信する。


 ――偶然じゃない、これは……必然だ!


「ヴィアンテ、これから俺の言う事を良く聞け」


 ベルフェゴールに聞こえないように作戦内容を伝える。ただ彼女がすべきことだけを。


 そして遂に終焉の光は消え去り、暗澹あんたんとした空間に延焼えんしょうの炎が揺らめく。

 石床からの放熱に陽炎が立ち、酷熱に汗みずくヴィアンテ。

 悪魔は一瞬だけ表情を硬くするも、とるに足らないという風に軽く鼻を鳴らした。


「まさか、あなたの術ごときで防がれるとわね」


 ――好都合。奴は打ち消したのがヴィヴィの術だと思っている。


「それで坊やは……何処かしら」


 ベルフェゴールの視界から綾斗は消え失せていた。まるで光と共に消え去るように忽然こつぜんと。


「まさか彼を盾にして生き残ったなんてことはないわよね? まあ、いいわ。まずはあなたが死になさい」


 ヴィアンテに突き付けられる死の宣告。


 ――明らかに俺をあぶり出すための詭計きけい。だが……。


「こっちだベルフェゴール!」


 悪魔はぬるりと頭上を見上げ、歪な笑みをたたえた。


「あら、折角私を倒すチャンスだったのに、馬鹿ね」


 悪魔の遙か頭上で虎視眈々こしたんたんと標的を見据えての自由落下を開始する。


 ヴィアンテの転移術で集光レンズ直下へ転移した綾斗は、天井にぶら下がったまま待機し、を狙っていたのだ。


 ベルフェゴールは勝利を確信した微笑を浮かべたまま高速で詠唱し、


「ラ・ルミエレ・デ・ラ・ファン」


 と句結する。


 ヴィアンテを見殺しになど出来ない。奇襲は失敗した。


 ――だが……まだ終わりじゃない。


 脳内のカウントダウン。残り時間は五秒も無い。


 しかし、だからこそ――俺たちの勝利だ。


 放たれた昇雷を左手だけで受け止め、ほとばしる狂気を散らす。


 ――重い……だが、あと数秒でいい……持ちこたえろ。


 綾斗は右手を高く掲げ、胸中でカウントする。



 ……3、2、1、0。



 その瞬間、世界は光で満たされた。

 全ての物に平等に降り注ぐ浄化の光で。


 ――この一撃に全てを。


 綾斗は最後の希望の光を確かに掴み、唱えた。


 ――レイ・ストライト!


 それはか細くても鋭い白槍。残り全ての力を絞り出した一撃。

 直進する光が不吉な黒白を貫き、ベルフェゴールの眉間を穿った。


 強欲な悪魔にくれてやったのは最弱の共鳴術が最強の共鳴術を打ち破るという皮肉。


 レイ・ストライトを放つためにマスターアームを解除した綾斗は凄絶そうぜつ稲光いなびかりをその身に受けた。皮膚が焼けただれ、鋭い痛みが全身に走る。網膜も焼かれ、もう何も見ることは叶わない。


 ――これでいい。人殺しの罰としては足りないぐらい……だ……。


 そして感覚は全て消え去り、自分の存在さえも認識できなくなった。


 術者が死亡した後も光の柱は天蓋を溶かし、天に向かって伸び続けた。

 それは清浄せいじょうさとは無縁の歪な光。視る者の心の不安を駆り立てる邪悪な光。

 だが、それはもはや誰の目にも映る事は無い。

 浄化の光が全てのけがれを飲み込み、溶かした。


 ふっと世界に色がもどり、東の空に浮かぶ太陽が天地を照らす。


 まだ目を覚まさないアリシアを胸に抱きしめ、天を仰ぐ少女。

 吹き抜けになった天蓋から覗く青空が、コバルトブルーの瞳に一層深く青を刻む。


「綾斗……」


 広すぎるカテドラルの中に虚しく響く声。


 そこに彼の姿は無かった。

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