第4話 アドベント


 プシュッとケースが開く音で目が覚めた。


 綾斗が使用したカプセルは二階の個室――エソラが使用していたものと同機体。


 部屋の内装は現実世界と全く同じ景色。

 視覚どころか肌に触れる空気の感触まで同じ。


 何もかもリアルサイドと同じで、はっきり言ってログインしているという自覚がまるでなかった。


 モニターは盲検試験ブラインドで行われていたが、エソラとレムの時は例外だったという。


もしかしたら、それが異世界を生み出した原因だったのかもしれないと聡次郎は補足していたが、綾斗にはさっぱり理解できなかった。


 ――とにかく、過ぎた事を気にしても仕方がない。


 目を閉じて四つ数えて息を吐く。


 纏わりつく雑念を振り払って被検者用の白服に袖を通した。


◇◇◇


「綾斗くん、準備が整ったようだね」


 天の声みたく聡次郎の声が響いたのは丁度玄関を出てすぐの事。最後の確認という訳だ。


「もう一度重要事項を説明しておく。まず一つ目に『エデンの東』は一言で言えばファンタジー世界。魔法やモンスターが存在する。だが、例え死亡してもエデンに戻されるだけなので安心してほしい。二つ目に時間の流れは現実世界と同じ一日二十四時間サイクルで首都の時刻と日本標準時が一致する。ただ、異世界内で時差があるため君が初めに訪れるであろう場所は昼間の十一時頃だろう。その被検者用衣装の袖に電子時計が組み込まれているのでそれでタイムリミットを確認してほしい。最後に、使用される言語は日本語でコミュニケーションに問題はないと思うが、綾斗くんはフランス語は堪能かね?」


 予想もしていなかった質問に思わず足を止め、そんなわけあるかと突っ込みたい気持ちを抑え、「いいえ」と蛋白に答える。

 聡次郎はそれが意外とでも言いたげな不自然な咳ばらいで話題を逸らす。


「……そうか。まあ、さして問題は無いのだろう。他にも幾つか驚く事があるかもしれないが、後は自分の眼で確かめてほしい。その世界に入る事さえ出来ない私が言うべきことでも無いのだが、どうか寛容な心で目に見える世界を受けとめてくれ」


 よほど胸につかえていたのか綾斗の返事を待たず、聡次郎は舌を走らせた。


「本当に君には申し訳ないと思っている。どうか娘の事を救ってやってくれ」


 それは余りにも重い頼みだが、返事をしない訳にはいかない。そして聡次郎には向こうの世界の様子が分からない訳なのだから、適当に答えてはかえって不安にさせてしまう。だから――。


「……了解」


 シンプルに、だが、はっきりと放ったその言葉が届いたのか、聡次郎は通信を切った。



 綾斗は立ち止まり見上げる。そこは東の壁。動物たちが楽園を目指し行進する様が描かれたその絵画には金のプレートで『エデンの東』という題名が付けられている。


 ――エソラはエデンが拡張されていくことを心の底から望んでいたのだろうか。


 幸せそうな動物たちの表情には希望が映し出されている。

 だが、その希望は思わぬ形で叶えられてしまった。


 綾斗は現実を噛み締め、目の前の事に意識を集中する。


 この向こう側へログイン――つまりアドベントするための条件は、ただ絵画を見ていればいいと聡次郎は言っていた。


 いつあの眩しい光が閃くのかと、目を細めて構えたがそれらしい様子はない。だが、絵の持つ魅力あるいは吸引力とでも言うのだろうか。不思議と引き付けられるように体が前のめりになり、その分視界が絵画の世界に浸食されるような……。


 そこで綾斗はゾッとして鳥肌を立てた。心地よさから不快感へと急転換。


 ――身を寄せていたのは俺じゃない。絵の方だ。


 気付いた時にはもう引き返せなかった。

 初めはゆっくりとその腕を伸ばしていた油彩の空が、砂丘が、視界を埋め尽くす。

 それは猛スピードでトンネルの入り口をくぐったような感覚。両脇を新幹線が通り抜けていく程の眼を瞑りたくなる速さで、その揚力に吸い込まれそうになる。


 綾斗の胸にざわつき始めたのは恐怖心。


 身を投げ出してしまえばもう戻ってこれないような気さえして、両足が強張る。 だがその時、聡次郎の言葉を思い出した。


『目に見える世界を受けとめてくれ』


 その意味を理解できた気がした。


 ――あいつに出来たんだ。ここで飛べなきゃ、あとでまた嫌味を言わる。


 綾斗は狂気じみた微笑を浮かべ、張り付いた両足を解き放った。


 光に身を包まれたのはその時。

 不思議と警戒心は解けていた。



◇◇◇



 ザッ。


 体が僅かに沈み込む。

 砂粒を踏み込む音と靴の底を通して伝わる感触。そして首筋に焼けつく熱。


 ホワイトアウトから抜けるにつれ、景色が彩りを取り戻していく。

 辺り一面に広がる白い砂漠。遙か彼方には切りたった円錐形の舌鋒がそびえ、その中腹には七色の虹が架かる。


 それだけであれば幻想的な景色で言いくるめる事ができたが、余りの熱射――天高く登る太陽とは明らかに反対方向から感じるそれの正体を確かめるべく後ろを振り返った。


 控えめに言って圧倒された。


 光の壁とでも形容すべきか。ギラギラと蠢くそれは、光という清浄な響きとはむしろ対極にあるようにも思えるが、青天井――いや、宇宙の彼方へと無際限に伸びていく様は神が成し得たとしか思えないほどに超自然的だ。


 ――さて、どうしたものか。


 差しあたっての目標は協力者との接触だが、見渡したところ町の影は見当たらない。

 山の方角に行けば白い巨石がどっしりと腰を据えている。


 ――あれに登って辺りを見渡せば何か発見できるだろうか。しかし、砂漠を闇雲に歩くのは危険すぎる。それに時間も限られている。ここは慎重に。


 他に目印となるものが無いかもう一度辺りを見回してから、探偵のような仕草で頭を悩ませる。


 ――そうだ視覚だけにたよるな。


 目を閉じて耳を澄ませると、早速琴線きんせんに触れた。


 ――なんだ? この音は。


 ヒューンと何かが落下するような音。まるで爆撃のような不吉な音だと認識した時、見上げた綾斗の両目がそれを捉えた。


「嘘だろ……ドラゴン⁉」


 爆撃どころではない。爆撃機そのものが脳天直下に迫って来ていた。

 綾斗は蛇に睨まれた蛙の様に硬直したまま見上げる事しかできない。


 するとドラゴンは両翼を展開。たった一度の羽ばたきですさまじい勢いを相殺してみせた。

 急ブレーキを掛けた衝撃で飛び散る光の欠片。

 光沢を湛えた赤色の鱗片が宙を舞い、金属じみた音を立てて次々に地面に突き立った。


「グオォォォォォウ‼」


 体の芯を打つ咆哮が轟き、玉の汗を揺らした。

 異世界で死んでもエデンに強制送還されるだけ。しかしそれは余りにも、


 ――格好がつかない。


 綾斗は構えた。一見ただゆったりと立っているようにしか見えないが、それは攻撃を捨て回避のみに重点を置いた『サーベイスタンス』。和名で言えば不攻の構え。

 明らかに実力差があり勝ち目がない場合や、実力が未知数の敵に対峙たいじした場合に使用する。


 ――この場合、得体の知れない化物と言った方が正しいが。


 基本に忠実に、呼吸を整え余計な力は一切捨て去る。そして観察する。敵の予備動作を見逃さないように。


 火球でも吐かれてしまえば成す術はない。

 だが、ドラゴンは強靭な尻尾をグルンと振り上げる動作をとった。

 技名を付けるなら尻尾叩きつけ。


 ヒュオオオオッ。


 続く落雷のごとき衝撃音。

 その巨体に自然落下エネルギーを乗せた無慈悲な一撃が大地を揺るがし白煙を巻き上げた。


 綾斗はそれを辛うじて避け切っていた。しかしそれは寸分の狂いも許されない絶妙なタイミングだった。


 S.C.Sにおいて攻撃動作は三つの段階に分けられる。

 それは予備動作、確定初動、制動限界だ。


 確定初動とは技を放つ瞬間の動作で、キャンセルする事ができない時点を指す。これを見極める事でフェイントにだまされなくなる。


 そして制動限界とは車の制動距離のようなもので、ブレーキをかけてから止まるまでに必要な距離や時間の事だ。これを推し量る事により、カウンターが決まるかどうかを見定める事が可能となる。


 ――こいつの場合は避け一択だが。


 あんな分厚い金属に拳を打ち付けるなど、正気の沙汰ではないし、組み技など論外だ。


 徐々に薄まっていく砂煙。見つかれば死――。


 だが、綾斗はドラゴンの視界から消えることに成功した。

 と言っても巻き上がった砂にその身を覆わせただけ。地面に這いつくばり気配を絶つ。

 ドラゴンにこれが通用するのか微妙だが、悪い作戦とは思わない。身に纏う白の被検者装衣が丁度良い目くらましになる上、砂埃で嗅覚もいくらかは誤魔化せるはずだ。


 ――我ながら情けない。だが、古典的RPGで言えばドラゴンは後半に出てくる最強クラスのモンスターというのが定石のはず。こんな初端にエンカウントしたのがそもそも間違っている。それをなかった事にして何が悪い。


 そうやって苦しい言い訳でも捻出しなければ、メンタルを保てそうにない。


 ――ただ息を潜めてじっとする。余計な事は考えるな。


 戦慄く体を浅くゆっくりとした呼吸で鎮めるが、ドラゴンが大木の根のような大足で地面を揺るがす度、肌の砂粒が震えあがり、恐怖が伝染する。


 それでも我慢強く待っているとフゴッ、フゴッと鼻を鳴らした後、諦めたのかそれきり動きが止まった。


 情報が一切入らないというのは、それはそれで怖い。綾斗は恐る恐る瞼で砂を避けて様子を伺った。


 ――まずいッ!


 飛び起き、呼吸を整えるのも忘れ、一心不乱に走り出した。兎に角、ドラゴンとは逆の方向へ。


 背後で空気を掴むのは大風呂敷のように広げられた強靭な両翼。その姿をちらと見ただけで何を意図するのか瞬間的に理解した。


 言うなれば炙り出し。不可視の広範囲波状攻撃。


 ――回避などできるものか。こうなったら、距離をとる以外に道はない。


 ヴォンッ。


 空気の塊が打ち出された音。

 分厚い壁に背中を押し上げられ、地から足が離れる。巻き上げられた砂塵と共にもみくちゃになりながら宙を舞い、上も下も分からなくなる。


 空を裂くような咆哮。


 ドラゴンがその比類ない膂力と翼力をもってして、最大速度の突撃を仕掛けた。


 ――こんな小物になぜそこまで。


 逃れようのない巨大な力を前にした人間の感懐などこんなものだ。

 ただ、力のなさを呪い、せめて自分の死に理由を付けたがる。

 アギトが大きく上下に開き、整然と並ぶ刃の先端を生唾が跳ねた。


 ――そうか。これは単なる捕食。弱肉強食に理由は必要ない。どうせ死ぬのなら痛くないように一撃で屠ってもらいたい。


 それが最後の願い。


 だが、それが叶う事は無かった――。



「レイ・ストライト!」


 聞き間違いでなければ少女の声。それから箒星の様に尾を引く光が火竜の右目を穿った。


 姿勢を崩した竜は本来の軌道を外れ、地面へ片翼をついてスピードを殺し制止。 残ったもう片方の目で乱入者を捉え、「ヴシュゥウッ」と息巻いた。


 砂地を転がった綾斗はやや遅れて視線を送る。

 クリーム色のローブ。背は同じぐらいだが、ゆったりとしたフードで顔が見えない。

 まさに一色触発の空気の中、先に動いたのは少女の方。砂丘から滑るように降りて来て、綾斗の腕を引っ掴み叫んだ。


「さあ、私と一緒に逃げましょう!」


 先行する少女の足かせにならぬように精一杯足を踏み出す。

 だがしかし相手はあのドラゴン。今にも飛びかかってきそうな気配を背中に感じる。


「どうやって逃げるつもりだ! 直ぐに追いつかれるぞ!」

「大丈夫です! 彼らが駆けつけてくれましたから!」

「彼ら?」

「レジスタンス――レベナルの騎士達です!」


 砂丘を乗り越えた瞬間。四つのシルエットとすれ違う。


「たった四人でどう戦うんだ⁉」

「まあ、見ていてください。彼らの雄姿を!」


 綾斗はその言葉を信じ、足を止め観察する事に集中した。


 まず戦陣を切ったのは棺桶のような重鎧を全身に纏った盾斧シールドアックス使い。つい先刻まで最も後方にいたはずなのに、その鈍重な見た目に反する動き――明らかに物理法則を無視した速度で最前線へ躍り出た。

 盾を前方に構えたまま体当たりを仕掛ける。が、どう考えても無謀すぎる。


 ――ドラゴンと人間では質量が違いすぎる。あのままでは犬死にだ。


 案の定、ドラゴンは重戦士に狙いを定め速度を上げるが、反対に戦士の速度はスローモーションと言っても差し支えないほどに減速していた。


「……、フリージング・ディビジョン!」


 三小節ほどの流麗な呪文を唱えた後、そう叫んだのは紫ローブの背の低い女魔術師。

 直ぐに目に見えた変化はなく、不発だったのかと訝しんだが、そうではなかった。


 水平飛行するドラゴンの顔に霜が降り始めたのだ。


 パキパキパキと音を立てながら加速度的に浸食し、速度を奪いながらドラゴンの前面を氷結させてしまった。

 しかし、竜は荒々しい雄たけびと共に、纏わりつく氷を粉砕する。

 そして火竜が完全なる自由を奪い返す前に、次の術が唱えられた。


「……アイアンスキン!」


 それは皮膚を硬化させ一時的に防御力を上げる術。欠点として石像のように動けなくなるが、盾斧使いは既に防御の姿勢を完了させていた。


 ドラゴンのショルダータックルとまともにかち合い、ゴォォオンという鐘のような音が炸裂さくれつする。

 盾斧使いは踏みとどまったどころか、盾のギミックを発動し、クモ足のような鋭い鉄杭をドラゴンに打ち込み拘束した。


 たまらず悲痛な雄叫びが上がるが、構うことなく残りの二人の騎士が追撃を仕掛ける。


 先に跳躍ちょうやくしたのは片手剣使い。片手剣と言ってもそれは通常なら両手で扱いそうなほどの長さがあるが、それを軽々と振りかぶる。


「ブレイズ・ブレイド!」


 闘志を宿すかのように刃が赤熱する。


「せああぁっ!」


 ドラゴンの首を狙った渾身の一撃。驚くことにあの金属質の鱗を見事に切り裂いた。


 だが、それでも浅い。肉自体は殆ど切断されていない。が、続くハルバードの先鋭が鱗の裂け目に深々と突き刺さった。


 投擲したのではない。


 ほとんど瞬間移動じみた速度の突進突き。

 引き抜かれた先端が赤黒い血を空に引く。

 たった一歩のバックステップで助走に十分な距離を稼ぎ、血しぶきが地面に落ち切る前に次の一撃を突き立てた。


 まるで3Dのハリウッド映画から飛び出した様な光景に綾斗は釘付けになった。その手を少女が引く。


「彼らは負けません。さあ、今のうちにデザートコールへ」

「デザートコール?」

「ほら、あれです。白い一枚岩が見えるでしょう。あれが白砂の要塞、我々がデ ザートコールと呼ぶ拠点です。いろいろとお話したいことがありますが、今は安全が最優先です」


 綾斗は頷き、少女に導かれるまま目的地へと急ぐ。


 訳が分からないことだらけだが、この少女は信頼していいと綾斗は思った。

 理由は単純。まるで警戒心というものを感じない。要するに隙だらけだ。



 要塞へ向かう途中でドラゴンの雄叫びを聞いた。

 阿鼻叫喚あびきょうかんを湛えるその声色は振り向いて確かめる必要も無く、彼らの実力を証明するものだった。


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