第17話 変えられない過去


 いつの間にか全身を突き刺すような痛みは消えていた。


 ――皮膚感覚が無い。


 深部感覚すら失い自分の手足が何処にあるのかさえつかめない。

 だがおかしなことに、失明し漆黒に染められていた世界に光がもどっていた。


 白銀の世界。

 奥行き、平衡感覚が全く掴めない未知の空間。


 ふわりと宙を漂う感覚に、


 ――天国か。


 と独り言つ。


 ふと何かの気配を感じて目の前に意識を集中する。

 視えないものを捉えようとするように。


 ――フィブリル?


 蛍光色の波打つ小さな光。疑問符を浮かべたのはこれまで観測したことの無い挙動を示したからだ。

 それそのものが意志を持つかのように滑らかに宙を舞い、光の尾が何かを描いていく。

 まるで妖精達のダンスのように幻想的で、美しい光景。


 そして連想した。


 描かれる人物――それはエソラの母、アンジェリーナ。


 そう認識した瞬間、光は速度を上げて輪郭をとり、色を添えた。

 病的なほどに純白な肌、艶やかな銀色。コバルトブルーの優しい瞳。

 それは綾斗の記憶のままの姿。



 白いエレガントなワンピースが夏の暑い陽射しを反射して煌く。

 彼女は丁度車を降りたところで、後部座席の子供を下ろそうと振り返る。


 ――駄目だ……振り向くな!


 彼女の背後から忍び寄る黒いスーツの男。右手に跳ねるのはジャックナイフ。


 ――彼女に……触れるな!


 声に出すよりも早く、綾斗はアスファルトを蹴った。恐ろしい予感に怯え、動けなかった過去の自分を置き去りにして。


 無我夢中。されど冷徹さだけは失うなと本能が語りかけてくる。

 七年かけて積み上げてきたこと。呼吸、重心、死角、微細な表情、視線の変化。


 ――何一つとして見逃さない!


 男の死角。右側後方から低い姿勢で脇をくぐる。突き出された右手の肘関節を内側から肘鉄で強打すると、男の右腕が折り畳まれるようにしてナイフの切っ先は向きを変える。


 打撃自体は大したダメージはない。

 だが、男の頸動脈めがけてその凶刃は反り返った。

 あの時もこうなると分かっていた。


 ――自業自得。因果応報。天使のような彼女を殺そうとした報いだ。


 だが――。


「同じ過ちを繰り返してはいけない」


 誰かが放ったその声に従うように、綾斗は左手を後ろへ差し出した。


 掌に突き立ったナイフ。


 覚悟していたからなのか、不思議と痛みは感じなかった。

 それでも生まれてしまった決定的な隙。


 ズブリと引き抜かれる凶刃。


 綾斗の背後から男の反撃が始まる。


 完全な死角。突飛な行動をとってしまったため、予覚した決着はキャンセルされ、もう一度視覚情報を取り入れなければ男の動きは予測不能。


 しかし、綾斗は避けた。


 それは最早予測の域を超えた、未来を透視したかのように迷いのない動き。


 ――何故だか分からない。だが、視える。数秒先の未来が。


 綾斗は背を向けたまま、振り下ろされた男の斬撃を右に躱すとノックする様にナイフを弾く。そのまま右から振り返り、自身の右上腕を遮蔽にして左手で突き上げを放つ。下顎を持ち上げられ、乱れた男の重心を弄ぶかのように連撃を叩き込み翻弄ほんろう。最後は仰け反った男の胸に自重をのせた掌底突きを放ち、フィニッシュ。


 床に頭を打ち付け、呻き声を上げる男を別の黒服の男たちが一斉に取り押さえた。


 犯人の男は彼女たちのSPに紛れていたのだ。



「ありがとう」


 柔らかな声に振り返るとにっこりと微笑む天使。

 その肌にも純白の服にも、穢れは一切ない。綾斗は貫かれた左手をさっと隠した。


「あなたのおかげでエソラとレムも助かったわ。本当にありがとう」


 抱擁ほうよう。ヴィアンテの感触を思い出す。

 花のような匂い、ゆりかごのような心地良さ。その全てが心を安らげる。


 これこそが綾斗が望んだ結末。


 だが、気付いてしまった。


 ――これは夢だ。何て希望に満ちていて残酷な夢。


 その瞬間、幸福な世界は白い光に溶けて消えた。全身を包み込む温かな安らぎとともに。

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