第2話(旧第2話前編) エソラ


 ――また汗を掻いた。


 偽りの汗は夢が終われば消えてしまうが、記憶は失われずそれは現実を上回るほどの経験となりうる。


 綾斗あやとはこれを五歳の頃から積み重ねている。


 初めは基礎的なトレーニングから始まり、戦闘シミュレーションに至るまでおよそ二年を要した。


 ◇◇◇ 


 そして現在十四歳、中学二年になるが、はっきり言って同世代で綾斗の相手になる人間はまずいない。例えば目の前の不良。


「よう、綾斗。お前の弟の雅斗まさとくんだけどさ、教育がなってないんじゃないかな。目上に対する態度? 全然わかってないよねー」


 生々しい頬の青あざが全てを物語り、綾斗は心中で溜息をつく。


 雅斗は一つ下の弟で綾斗と比べ攻撃的で絡まれた喧嘩けんかは漏れなく全て買い上げる。

 雅斗は今でこそVR訓練は行っていないが、綾斗と同じく基礎訓練だけは履修りしゅうし、その後は実戦で体を鍛え上げ、身体能力も高い。相手が何人だろうとひるむことなく鬼神のごとく戦い、界隈かいわいでは悪名高い。


「おい、聞いてんのか」


 輩の不躾ぶしつけな発言には返す言葉もない。というよりも何を言っても無駄だ。

 大方、雅斗にやられてその腹いせに殴ろうと言うのだろう。


 空はやっと西日が射しこんできた時分。あえて人気の少ない早朝を狙ったというのに、陸橋という事も災いして逃げ場もない。


 相手が内心を察知しないギリギリまで目を細め、もういちど心中で溜息。


 殴りたいならさっさと殴れ、などとは言わない。ただ怯えたフリをして相手の征服欲を満たしてやればよかった。


「おっ、潔いじゃねえか。避けるなよっ」


 ボクシング選手を真似た前傾のファイティングポーズから右ストレートが放たれた。


 ――避ければ相手は余計に怒りを燃やす……最善は……。


 ◇◇◇


 そして事は済んだ。たった一撃で派手に吹き飛び地面に這いつくばるのは綾斗。 顔は決して上げず、降伏こうふくの意志を示す。


「さんきゅー。おかげでスカッとしたわ。それじゃあ、雅斗くんによろしく言っとけよ」


 軽やかな足音が下っていくのを確認して体を起こし、制服のほこりを払い落す。

 汚れてしまった掌。眠たい眼を擦るのを我慢して歩み始める。


 弟の火消しはいつもの事。とは言え、元々温厚だった雅斗が暴力に走るようになったのは綾斗の所為でもある。


 殴られても全くやり返さないサンドバッグを見て見ぬふりができず報復。

 現役自衛隊員の父から直々に手解きを受けた雅斗に敵う相手は早々おらず、次々と現れる挑戦者を屠っては悪評を高めた。


 今となっては己の力量を推し量れていない分不相応な輩だけが雅斗に挑み、満たされない支配欲や自尊心を取り戻すための妥協案が綾斗に廻って来るという訳だ。


 だからある意味自業自得。


 綾斗は決して博愛主義者ではない。無益な争いの悪循環を断つのは圧倒的な武力か、徹底的な降伏。前者が雅斗、後者が綾斗というだけだ。


 階段を下り切った時、横から現れた人影が進路を妨げた。

 また客人か、と渋々顔を上げるとそこに居たのはクラスの女子。それも今最も会いたくない相手だ。


「おはよう。綾斗くん」


「ああ、おはよう織島おりしまさん。じゃあ、また学校で……」


 適当なあいさつを返したすれ違い様、がっと左の袖を掴まれ急制動がかかる。


 ――あからさまに拒絶の意志を示したというのにこの女は……。


「何の用か分かっているでしょう? まさかそれが分からない程、知能が低いなんて事はないわよね?」


 淡々とした口調でディスる彼女の名前は織島エソラ。

 フランス人を母に持つ彼女は日本人離れした人形のように美しく気品に満ちた顔立ちに、アッシュブラックとアッシュシルバーのグラデーションという、冗談のようなヘアカラー。

 ロングの毛先に反射した銀色の陽光が網膜に乱反射して、心の不穏を駆り立てた。


 無言の綾斗に対して軽く眉間を吊り上げ、面倒ね、と態度で示しながら何度目かの文句を放つ。


「私の護衛ごえい、引き受けてくれるかしら」

「何度誘っても無駄だ。答えは変わらん。それに俺は役に立たない」


 ここ一か月余り、このやり取りを繰り返している。

 それに今回は決定的だ。不良に一発KOされ、反撃の兆しも見せない無様な男。


 ――まあ、それも先ほどのやりとりを見ていればの話だが。


拝見はいけんさせてもらったわ。見事なやられっぷりね」


 一瞬心を読まれたかと思ってドキリとしたが、エソラはかなり頭の回転が良い。綾斗が意図した事を予測したのだ。


「なら、諦めた方がいい。誰かを痛めつけるだけなら、それこそさっきの不良でも捕まえて心行くまでうっぷんを晴らさせてやればいい」

「それは素晴らしいギブアンドテイクね。でも、これはあなたにしかできない」

「勧誘の常套句じょうとうくだ」

「事実よ」


 織島エソラには皮肉も牽制も通用しない。特に今日は隙が無い。


 焦りともとれるそのほんのちょっとの変化が気になって綾斗は口を開いた。


「ならせめて仕事の内容を教えてくれないか?」


 綾斗に引き受けるつもりはない。だが、仕事を頼まれるというのならその内容を聞くぐらいの権利はあると考えたのだ。


「やっぱり記憶力に欠陥があるようね。それは機密と言ったはずよ」


 冷ややかな薄ら笑みに軽く怒りを覚えながらも、綾斗はここぞとばかりに言葉を放つ。


「じゃあ、交渉決裂という事で。出来ればもう勧誘しないでくれ」

「待って、これでも焦っているの」

「ほう。とてもそんな風には見えないが」


 エソラが初めて見せた弱みにつけ込み、優位性を確保する。


「もしあなたが来てくれないのなら私は……」

「私は、何だ?」


「あなたの事を恨むでしょうね。きっと、一生恨み続ける……と思う」


 遠くを眺めるような面持ちで確かめる様にゆっくりと言葉を繋いだ。


 ――はったりじゃないのか。


 綾斗にそう思わせるだけのシリアスな間があった。


 そしてエソラは狡猾な笑みを浮かべると綾斗が怯んだ隙を見逃さず畳みかける。


「どうして頼みを聞いてくれないの? 私がこんなに頭を下げているというのに」


 ――『頭を下げる』の意味を知っているのか? それが気持ちにおける比喩表現だったとしても納得がいかない。あの踏ん反り返った冷ややかな目線を低頭と呼ぶなら、土下座はお辞儀程度か。まあ、どちらにしても、土下座しろ、などと言うつもりもないし、優越感の塊のようなこの女がそれに従う訳もない。


「いい返事を期待しているわ」


 そう言い残し朝焼けの中へ消えていく。

 あの話の流れでどうしていい返事を期待できるのか綾斗には理解できない。

 取り残された綾斗は一人途方に暮れた。


 成績優秀で頭の回転も良いがどこか抜けてるお嬢様。

 綾斗にとってそれが織島エソラのパーソナリティ。


 確かに彼女には『借り』がある。とても償い切れない程の借りが。

 だが同時に引き受けられない理由もある。それらがせめぎ合って苦痛になる。


 ――だから俺はあいつに……会いたくないんだ。


 ふと賑わい始めた町の喧騒に心を引き戻される。

 人通りの多くなりつつある路地で、感傷に浸るのも馬鹿馬鹿しくなった綾斗は通い慣れた道を辿り始めた。

 

 


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