第51話 神の証明

 満身創痍まんしんそういの綾斗。

 骨折した左腕は使い物にならず、激しい痛みで力を入れる事は敵わず、だらりと垂れ下がる。

 顔を伏せ、荒い呼吸を繰り返していた。


 ――彼の末路は決まった。後はエソラだ。


 エレンの思考は目の前の綾斗ではなく、次の標的へと意識を移していた。

 共鳴術の才に長けたエソラ。逆に言えばそれさえ封じておけば後はどうにでもなる。


 如何にして失望を与えるか。最大限の恥辱と苦しみを与えた上で殺害するにはどうしたらいいか。


 ――アリシアも同様だ。まあ、生きているかさえ怪しいものだが……。


 ふとエレンは思考を止めた。

 

 ――なんだ? やけに静かだ……。


 ゆっくりと顔を上げて、その理由を知る。


 綾斗の呼吸。

 

 荒々しく息巻いていたはずの呼吸音が、次第に小さくなっていたのだ。

 音の大きさだけではない。

 肩でしていた仰々しい呼吸は胸だけに。

 やがてほとんど動きが分からない程静かなものに。


 そしてついに奇妙な程の静寂と無動。

 まるで宵闇に潜む亡霊のように。


 

 研ぎ澄まされた思考の中で綾斗は何を思ったか。


 一体どこで選択を間違えたのか――。



 ほんの些細な事が、最悪の結果を招く事がある。


 例えば、


 たった一人の少女の気まぐれが。

 ほんの小さなプライドが。

 信仰心が。

 悪夢が。


 破滅と平和の分岐点は幾つも用意されていた。

 ただ見落としてしまっただけ。

 誰にもどうしようもない事だったのだ。



 などと言う達観した諦めを綾斗は持ち合わせていなかった――。


 彼の心を支配していたのは研ぎ澄まされた殺意。それ以外の感情は無い。



 瞳に帯びる蛍光色が禍々しい赤へと変色し、ひと際強い輝きを放つ。

 次の瞬間――、綾斗は飛び出していた。



 負傷しているはずなのに明らかに先よりも早い動き。


 ――何が起こっている⁉


 迎撃するサイクロプスの地を這うような右ストレート。

 本来、攻撃を躱す時は予想される距離プラス2センチ。実力が未知の相手の場合はさらに安全距離マージンを3センチ上乗せする。

 しかし、綾斗がとったのはマイナス2センチの負のマージン。


 拳の先端とほとんど擦れるほどの精度で躱しながら飛翔。


 そのまま黒い巨腕を駆け上がり、巨人の体幹へ向けて跳躍。


 振りかぶった右腕を、凝視する視線の先へ――筋骨隆々とした胸の中心に叩き込んだ。



 しかし、その衝撃は音も無いほど小さなものだった。


 ――何をするかと思えば、その程度で……。


 サイクロプスは肩透かしを食らったように首を捻り、それからゆっくりと拳を振り上げた。

 顔を伏せたままその場に立ちすくむ綾斗に、死の鉄槌てっついが振り下ろされ――。



 ズシィィン!



 しかし綾斗はそこに立っていた。

 後に倒れたのは黒き巨人。



 ――何が起きた⁉



 誰一人としてその現象を説明できる者はいなかった。

 術者である綾斗以外は――。



 綾斗が放った術式、それは言うなれば、『アンチ・リザレクション』。


 極限まで研ぎ澄まされた綾斗のエスは終に対象の鼓動を視認するに至った。

 本来リザレクションはその鼓動を増幅する術だが、綾斗は行ったのはその逆。


 つまりはマスターアームでサイクロプスの鼓動を止めたのだ。


 宝物庫の禁忌術目録にも存在しない、綾斗固有の術。


 神経毒に侵された騎士ハンナを救おうとした時にはサイトヴィジョンで捉えられなかったベースが、対象を抹殺せしめんとした際には視認されるという皮肉。

 しかし、これは綾斗のエスの特性上仕方の無い事だった。



 ――サイクロプスを……殺したのか⁉


 巨人の体はピクリとも動かず、呼吸も明らかに停止している。

 エレンには綾斗が何をしたのかを理解できない。ただ、殺ったのは紛れもなく綾斗だという事、そして次のターゲットが自分自身である事は彼の目を見ればわかった。


 慈悲を乞うた所で受け付けようも無い、暗闇の中に赤く明滅する鋭い眼光。


 綾斗が王族であるエレンを殺害した場合、不殺の戒めが発動してしまう。

 冷静に考えれば簡単に分かる事。

 しかし綾斗はそれすらも意識外の思考の末梢へと追いやり、エレンを殺す事だけを理由にゆっくりと歩き出した。


 サイクロプスから受けたダメージは常人であれば立っているのさえ厳しいレベル。その状態で綾斗は自己最大級のパフォーマンスを発揮し、脅威を打倒した。

 その反動は想像を絶する。


 一歩踏み出すだけでも、意識を失いそうになるほどの痛み。崩れ落ちる寸前で次の一歩を出して踏み止まり、また次の一歩を。


 先の戦いでの動きとは対照的なのろまな動き。

 エレンには走って逃げる時間は十分にあった。


 だが動けなかった。


 人外の物を目の当たりにした恐怖。


 冷たい汗がぶわりと噴き出し、体は小刻みに震え、逃げるという思考さえ抑えつけられて。


 遂にあと一歩と言うところに命を掬い取る右腕が迫っても、


 ――私は罪を重ねすぎた……この身を神の手に委ねるしかない……それが例え死神であっても。


 世界の終末を目の当たりにした信徒の如き境地。



 壇上で最悪の結果を予想した少女は必死に拘束を解こうと体に力を込めた。

 しかし、どうあがいても振りほどけそうにない。子供とは思えない高が外れたような力は覆しようがなかった。


 綾斗がエレンを殺してしまえば、不殺の戒めに従い、綾斗に悪魔が乗り移り無差別に人を虐殺する。かつてレムが犯した過ちが、今ここで起ころうとしている。


 綾斗を止めようと喉を駆け上がる叫びはしかし、口元で押さえつけられ、彼の耳には届く事の無い思いが涙となって頬を伝った。


 彼が後、数十センチ手を伸ばせば執行される罪の清算。

 そして地獄の始まり――。



 誰もがピクリとも動く事の出来ない沈黙の世界に突如、白の衣装を纏った一人の少女が舞い降りた。


 エレンと綾斗の間に降り立った彼女は、綾斗を抱きしめこう言った。


「もう大丈夫。あなたは良くやったわ。だから、もう休んでいいのよ」


 聖母のような優しい響き。

 少女は綾斗の頭を優しく撫でながら耳元で呟いた。

 懐かしい匂いに綾斗の心は少しづつ光を取り戻していく。


 理性が戻るにつれ、ヴィアンテの死を認識し、溢れ来る涙。


「……ヴィヴィが……ヴィヴィが……」


 少女はもう一度ぎゅっと抱きしめ、耳元で優しく呟く。


「大丈夫。彼女は死んで無いわ」


 朦朧もうろうとした意識の中で、誰に抱きしめられているかも認識できていなかった綾斗は、その匂いを思い出してハッとした。


 同時に硬直を解かれたエレンが叫び声を上げる。


「どうして……あなたが……二人も⁉」


 そう――、今この場には同じ髪色の少女が二人いた。

 

 綾斗を抱きしめていた少女はエレンに背を向けたまま、


「降伏の意志があるなら、子供たちにかけた術を解きなさい」


 と命令し、エレンは訳も分からないまま、言う通りにした。

 身に起きたあらゆる事象が想像の範疇を超えていて、考える事、抵抗する事を放棄してしまったのだ。


 そして壇上で自由を取り戻した少女は、愛に満ちた眼差しで式句を唱え、綾斗の前にふわりと現れる。

 すると抱き合っていた少女は自ら譲るように、一歩引いた。


 綾斗がエソラだと思っていたアッシュグレーにシルバーの髪先を煌かせる少女は、


「綾斗……あなたが無事で本当に良かった」


 と涙ながらに呟くと、すがりつくように綾斗の胸の内へ飛び込み、堪え切れぬ泣き声を響かせる。

 涙の熱は服に染み入り、綾斗は、直接皮膚にも染み込んでいるような気さえした。


「ヴィヴィ……お前が生きていてくれていて良かった」


 綾斗も溜まらず喉の奥でむせび泣いて、涙を零した。


 左腕に負った傷の痛みを忘れた訳ではない。

 ただ、そんな事がどうでもいいと思えるくらいに嬉しかったのだ。


 群衆の中で現実が飲み込めず固まっていたスグリも、その声色、その所作からヴィアンテだと認識し、飛び込まずにはいられなかった。


「ヴィアンテ様!」


 その声にヴィアンテは応えると、にっこりとした優しい笑顔で両手を開き、その胸の中に受けとめた。


「よかった……ヴィアンテ様ぁああ……本当によかったよおぉぉぉっ」


 人目も気にせず泣きじゃくるスグリの姿を見て、ほっとした綾斗は比較的無表情と言える方の少女に告げる。


「お前の仕業だな? エソラ」


「ええ、その通りよ」


 綾斗は全てのトリックを理解した。

 


 エソラとヴィアンテは入れ替わっていたのだと――。



 元々顔と声は同じ、後は髪色と表情さえ合わせれば見分けがつかない。


「だが、どうしてだ? 俺の言う事を真に受けていなかったくせに」


「確かに綾斗くんの言う事は時期尚早だと思ったわ。でも、綾斗くんがあんなに意地になるのも変だと思ったの。あの子に直談判しに行くと言った時は本当に驚いたわ。だから、私も気になって、ヴィアンテに直接話したの。それで彼女の夢合わせでもう一度未来を占うと、彼女が死ぬ未来が視えた。だから入れ替わる事にしたのよ」


「わざわざそんな危険を冒さずに儀式を延期する方法もあったんじゃないか?」


「それは出来なかったのよ。なぜなら、『平和をもたらすにはどうしたらいいか』、という願いを込めた夢合わせで『銀髪の姫が命を捧げる』という結果が出たのだから」


 綾斗が記憶している占いの結果は『真実に身を委ねよ、真実こそが平和をもたらす』。


 なぜ、同じ願いで占いの結果が違うのか――。


 綾斗はを考えてみた。



「そうか……もし、始めから後者の結果を聞いていたら、俺はレムの所に行って式典に遅れる事も無かった。エソラが死ぬ事が計画通りと分かっていれば、俺が暴走する事もなかった。エレンに挑み、俺はサイクロプスに殺されていたかもしれない。そしてその次はヴィヴィが……」


「その通りよ。この結末に至るにはが重要だったの」


「俺はまた愚者という訳か……」


 綾斗はまるで見えない力に操られた気分だった。


 だが、嫌な気はしなかった。結果的に誰も死なずに済んだのだから。

 そして、神の力を前にして信仰心を取り戻した男がここに一人。


「あ、あなた方は本当に神だったのですね⁉ 私はなんという恐ろしい事を……。どうかこの命を以て罪を償わせてください!」


 そう言ってエレンは忍ばせていた短剣を引っ張り出すと、自分の喉元に走らせた。

 かつて父がそうしたように――。


 しかし、刃はその初動を完璧に読み切った綾斗によって止められた。

 

「誰も死ぬ必要は無いだろ。折角のハッピーエンドに水を差すな」


 と一睨み。


「はっ、ははぁぁ! 仰せのままにぃぃぃぃ!」


 エレンは冷たい石畳に頭を叩きつける勢いで完全平伏。

 共犯者である彼の母親も罪の意識から名乗りを上げ、共にひれ伏し、その後駆けつけた騎士達によって連行された。

 実はその母親と言うのは綾斗とエソラが湖で出会った貴婦人。

 彼女は巨大蜘蛛に襲われていたのではなく従えていたのだ。



 困惑する国民達を、ヴィンアンテは宥めると、その場で式句を唱え大気中の水分を凝集させ、髪の色を洗い落とす。


 闇に浮かんだ光の珠がその姿を幻想的に彩った。


 くすんだ灰色が美しい銀色に移り変わっていく様は、得も言われぬ美しさがあり、群衆はその光景に見入った。


 そうしてやっと全ての国民がヴィアンテ王女が生きていた事、エソラと入れ替わっていた事を真実として受け入れたのだ。



 さらには、不死のエソラが神であることは疑いようも無い事も。

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