第五章の6


 山田の指がピクッと動いた。瞼がまたたいた。意識がもどってきた。運転を変わろうとして車からおりたところで、背後から衝撃があった。後続車に追突されたと、瞬時に思い、そこで記憶がとぎれてしまった。頭痛がする。視野がゆがんでいる。ぼんやりと、している。

 ――顔をみられた。

「どうせバラス女だ。たのしもうぜ」

やめとけ。ダミゴエが止めている。高瀬の声だ。助手席にいるらしい。

「だって、兵馬さん、宇都宮にきてから、ヌイテないんです。いいでしょう」

 許可を求めているのは、あのヤセの小男の方だ。

車を運転しているのはあのデブだ。

 山田は動けない。ガムテープで後ろ手に拘束されている。トミコは、後ろにいる。少し離れた、ボディの後ろ隅のほうにいる。向きを変えようとしても足も拘束されていた。ねがえりをうつことすら不可能だ。トミコの低くアガラウ声がする。

 山田は動けない。

 無力だ。

 トミコが犯されようとしている。

 動けない。いや、これでいいのかもしれない。たぶん、脳しんとうで倒れていたあいだに、ガンジガラメに拘束された――。いや、スタンガンでヤラレタようでもある。

 動けない。トミコを助けることができないのなら、彼女が犯されるのにも、気づいていない。それでいいではないか。そんな卑劣なことを考えた。くやしい。卑怯だ。動けない。屈辱に打ちのめされる。なんとかこの手が自由になれば――。


「いま……足のテープはきってやる。マタをおおきくひらいてよ」

 イヤらしい声。女をまえにして、期待で声が上ずっている。

「いや――」

 男がなにかした。

「いや、やめて」

「オケケも真っ黒だ。濃くて、そそけだっている」

「いまヌルヌルにしてやる」

 男が指にツバキをつけた。

 唇がビチャッと音をたてた。

 そしてネバツク音。


「ばか、指でたのしんでいるな。早くすませてしまえ」

「じゃ、たのしませてモライマス」

「あっいや。山田クン……たすけて。山田クン。あっ。あっ。いや、いやいやいや」

 グチュ。ヌラック音が、つづく。

「そとですませてこい」

 

トミコは車から引きずりだされた。

「死んでくれや」

小柄な男が言った。

 トミコは死を覚悟した。……わたしをキザミながらたのしむ。とんでもない、狂気のサディストだ。

 もうダメだ。

 男の手にはナイフが握られていた。

 凶暴な眼だ。歯をむきだしよだれをたらしている。

 よだれが、月光に照らされ、光っている。

 これが、殺される寸前の感情なのか。

 静かだ。コメカミで、血管が脈打っている。

死が迫っている。

男のほほがひきつった。よだれが、ツウットたれた。

男は興奮していた。

 不思議と怖くはなかった。

 もう、死んだも同然の体だ。

 男がナイフをフリ上げた。

 チョコンと立っている男は死に神に見えた。

 トミコは目を開いていられなかった。

 死をみつめていたかったのに。

 ボールがバットにあたるまで目を離すな。

 バットのどこにボールがあたったか見えるか。

 ソフト部の監督に叱咤されている。

 どうして――、いまなの。死神がおお鎌をふりあげて迫ってくる。

 死に直面している。

 どうして、いまなの。

 監督に叱咤されたことばなんか、思いだすのよ。

 どうして、どうして、いま、なの――。

でも、死の瞬間までナイフを見てはいられない。

 ナイフがどこに刺しこまれるか。

 見てはいられない。

 ナイフがどこに突き刺さるか。

 見られない。

 目を閉じた。

 痛みはやってこない。

 早く死にたいのに。

 いや、死にたくはない。

 もういちど、山田クンとやりなおしたい。

 どうして、山田くん。もっと早く、くどいてくれなかったのよ。

 もっと早く。いまからだって、やりなおせる。

 やりなおせるわよね。じぶんに、問いかけている。

 この期におよんで、死の瞬間に生きることを望んだ。

 生きること。

 生への執念。

 死ぬのが、恐い。

 生きたい。

 ナイフはまだ、ふりおろされない。

 そして――。

 ドサッと音がした。

 目を開けた。

 男が倒れている。

 背に矢が突き刺さっていた。

 若い背の高い男がスンナリと立っていた。

「毎朝新聞の中藤竜夫です。電話してくれた方ですか」

 トミコはウナヅイタ。

 猛々しくトミコに迫っていた男。

わたしをいたぶっていた男。

おどろくほど、多量の血が矢傷からふきだしている。

男はまだぴくぴくしていた。苦鳴かもれている口。パクパク動いている。

矢は背中から胸につきたっていた。

からだを跳ね上げていた。


声はだせないでいた。

低いウメキがもれていた。

それも、すぐに途絶えた。

「車の中にヤマダクンが――」

 みなまで言わせなかった。

「山田さんなら助けだしましたよ」

 竜夫は指さした。

 山田年尾が野田と樹木の影から現れた。

 トミコは下半身裸体なのに気づいた。

 背を向けた。

 ハズカシイワ。


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