第一章の8

8


 竜夫が麗子とはじめて同伴することになった、あの年の五月末の土曜日。同伴は七時半までにお店『ニューヨーク』に入ればいい。それをきいて、竜夫は麗子を午後遅くではあったが、市立美術館に誘った。

 美術館は「森の公園」の中に併設されていた。市街から5キロほど北の丘陵地帯にある。『宇都宮文化の森』に囲まれた閑静な雰囲気のなかに突然近代的な建物が現れる。その意外性が竜夫はスキだった。

 そういうところに、いったことない。と――美術館に誘われた麗子はためらった。わたしのように、夜のお仕事、オミズの女には絵を観賞するなんてムリよ。

 麗子はツマラナイことを口にして――このあたらしくできたいつもわたしを指名してくれる『若いお客さん』にきらわれたら、どうしょうと心配しているらしかった。


 もう二度と、同伴してくれなかったら……とおののいていた。

 ほかの同僚、キャバ女のなかには毎晩同伴の客がツイテいてこれみよがしに華やかに店に登場する。

 ああいうひとには、わたしはなれない。

 いくら努力しても、わたしのようなジミナ女は同伴してくれる客はあらわれないだろうと悲観していた。

 

 竜夫を大切な客とおもっているだけに、悪い印象はあたえられなかった。

 どうして、わたしなんかを美術館に誘うのよ。竜夫とどんな話をすればいいの……ためらいがあった。美術館に誘われたとき、正直にわたしには絵の楽しさがわからないからとことわればよかった。

『ベルモール』で映画でも見ましょうといえばよかった。いまになって、後悔してもはじまらない。

 受付をすませて、館内の展示場でも、はじめのうちはうちとけず、あまり絵に関心がないからと正直にうちあけて、竜夫の後からついて歩いているだけだった。それがこの美術館いちばんの売り『大家族』をみて、態度がふいにかわった。

 

 そのルネ・マグリットの、大家族は、当時六億円で落札購入したと評判になった。だが、まだ竜夫は幼かった。

 竜夫も見るのは、はじめてだった。

 

 嵐の予感に黒く閉ざされた空、海のうねり。

 そうした暗い雰囲気のなかを鳩の形にくりぬかれたような空は晴れていた。

 

 明るい未来、希望。

 大家族。

 家族に光をみているような画家のヤサシイ眼差し――。

 晴れた鳩形の空がまぶしかった。

 麗子の感想だった。麗子は興奮して印象をつぶやいた。


 晴れた鳩形の空がまぶしいわ。


「そうだ。そうなんだ」

 竜夫のほうが、興奮していた。

「すごい。絵がわからないどころじゃないよ。ぼくより素晴らしい。マルグリツトのメッセージをよく読みとっていると思う」

 あまりほめられるので、恥ずかしくなったらしい。

 顔を赤く染めた、ハニカンダヨウナ、わかわかしく生気にみちた麗子の顔。

 年上だといっても、わずかだ。むしろ、年下の女性のようなうぶな顔。

 

 レプリカの高価な複製画をかってあげるというのを遠慮する。

 これでじゅうぶんよ。

 麗子はポスターのほうを選んだ。

 わたしはこれで満足できる。

 この絵の大家族という言葉がすき。


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