第四章の4


帰路。蓮見病院。野田のケガの様子が心配だ。野田は、オオゲサにするな。打撲だ。ほおっておいても、治ると後部座席でいいはった。

 本当は、麗子に会いたくて、野田の診察を口実にして蓮見病院の駐車場にシビックをのりいれた。途中から、野田は竜夫の意図を理解したのか、おとなしくなった。

 竜夫は麗子の病室にいそいだ。マスターは倒した。元気になっているだろう。等間隔をおいて並ぶ病室の扉。メタリックな冷やかな光沢。開く。くぐもった、呻き声がする。狭窄衣。麗子はベッドに固定されていた。病院の裏を流れている姿川の土手を彷徨っていたのを警備員が見つけたというのだ。

「血が欲しい。血がのみたい。血血血血血」

 白い犬歯がのびている。

「どうしょう、タッチャン。15分くらいまえから、……ああなの」

メグがうろたえている。

「吸血鬼マスターがよみがえったのだ。心臓を一突きしたくらいではだめだった。ヌカッタナ。首をはねて、胴体から離さなければ、だめだったのだ。アイツを完全に消去するには、そうしなければだめだった。アイツを倒さない限り、苦しみながら、噛まれたものは、血を欲しがるのだ」

「血をのまないと、どうなるの」

「血を補給しなければ、死ぬしかない」

「そんな――。タッチャン、なんとかならないの」

 麗子は苦鳴をあげている。狭窄衣を脱ぎ捨てようとしている。

「タッチャン。助けてあげて。麗子ママをたすけて」

 メグが狂乱状態だ。

「麗子。おれの血をのむんだ」

 狭窄衣を脱がせた。

「麗子。おれの血をノメ」

 麗子を抱き起こした。竜夫はじぶんの首筋を麗子の口元にあてた。

「さあ。のめ。のむんだ。おれの血をのんでくれ」

 麗子の苦しむ姿を見ていられなかった。

麗子の犬歯がさらにニョキッとのびる。

 ひんやりと鋭い犬歯。

 鋭利にのびる。

 頸動脈に二対の穴をあけて、血をすうためにのびる。

「さあ、のむんだ。ぼくも吸血鬼になる。麗子とおなじ苦しみを、ぼくにも……」

 そんな言葉はまったく予期していなかった。

 疑似吸血鬼になった麗子のどこかで理性がはたらいた。

 ためらっている。吸血鬼が、血を目前にして、血をすわないでいる。

 吸血鬼が血を吸うことを拒めば、死ぬしかない。

 死にいたる拒絶。血を拒めば死ぬ。

 ひんやりとした犬歯がとおのく。唇がふれる。あたたかな麗子の唇が竜夫の首筋にあてられている。竜夫のほほにキスをする。

「さようなら。竜夫」

「麗子、麗子」

「竜ちゃん、ごめん。わたし先にいくね。竜ちゃんが宇都宮にもどってきたとき、わたしもう死んでもいいと思っていたの。あいつらに、マワサレ、ヤクうたれて、噛まれていたの。それでも、やっともてたわたしのお店。ママになれてうれしかった。マロニエ、あきらめきれなかった。逃げられなかった。そこへ、竜ちゃんがもどってきたの。うれしかった。生きることができるかもしれない。なんとかなるかもしれない。いっときでも、夢をもてて、しあわせだった」

「麗子。あきらめるな」

 竜夫が号泣した。

「ごめん。麗子。なんのちからにもなれず、ごめん。ゆるしてくれ」

血をすうことを拒んでいる。吸血鬼化するのを拒んでいる。血を吸わないうちは、真正吸血鬼ではない。マッサラナ人間だ。亞人間ではない。ピュアな人間だ。血を吸うことを必死で堪えている。

ソレがどんなに辛いことか、竜夫にはわからない。だがその健気さは、ヒシヒシと伝わってくる。おれのことを、愛していてくれたのだ。歳の差もある。オミズと堅気の記者だ。言葉にするのをはばかっていた。吸血を拒絶までして、ぼくを守ってくれた。麗子の息が弱々しくなっていく。からだがふるえている。死の苦しみに耐えて、小刻みにふるえている。

心拍がとぎれとぎれになる。

もう犬歯がのびだすこともない。

麗子のからだが、ピクッとちいさくはねた。

息をほとんどしなくなった。よく耐えたものだ。

麗子はみごとに、ヒトとして息絶えた。

彼女のぬくもりが、竜夫の腕のなかで冷えていく。

麗子は静かな麗子の顔にもどっていく。最後の力をふりしぼってヒトとして死んでいった。そんな死にかただ。

「ぼくは、愛する女ひとり助けることができなかった」

 号泣する竜夫。メグは麗子の死顔をみても、信じられない。いままで口をきいていたのに。驚きの光景だ。目をとじてやった。メグの目に、涙がうかび、ぽろぽろと頬をつたいおちた。

「麗子ママ。サヨウナラ。ママのウラミはわたしたちがハラスからね」

陰うつな哀感が竜夫のからだを支配した。身動きがとれない。涙もでない。だが全身が涙になっている。誰かが、泣いている。その嗚咽、すすり泣く声を聞いていた。おれが泣いている。この咽ぶように泣いているのは……おれなのか……。そう気づくまで竜夫は呆然としていた。

 廊下に足音がした。異様な音だ。リノリームの床をこすっているような音だ。扉に黒い影が浮かびあがる。若い看護師だった。

「やはりダメでしたか」

 かってに、狭窄衣を脱がせたことは咎められなかった。

 女のような声だ。女性の多い職場だからか。

「体を拭きますから、廊下でおまちください」

「最後までそばにいてやりたいですから」

竜夫がいうとメグもおおきく肯いた。

「そういう規則ですから」

「そこをなんとか――」

竜夫とメグが動かないでいると、廊下に足音がした。こんどは、複数の足音だった。

看護婦がふたりとびこんできた。心音測定器をみる。ピピピっとモニターの波線が横似

流れる。

「ドクター呼んで」

 言葉がとぎれる。白衣の看護師をみてポカンとしている。

「あなた、ここのスタッフじゃないわね」

 白衣がおおきく後ろにとんだ。麗子であった死体から離脱する。

「待て。この女を生き返らせたくはないのか。元気な顔をまたみたくはないのか?」

「そんなバカな」

「おれは吸血鬼だ。いま心肺停止したばかりだ。死んでまもなくなら、精気をあたえることができる。生き返らせることができる」

竜夫の意識がぐらりと傾いた。麗子の声をききたい。あたたかな肌のぬくもりをこの手

で感じたい。明るい笑顔を見たい。

ダメダ。ぼくの血を吸えば生きられたものを。吸血鬼として生きるのを拒んだ。吸血鬼として生きるくらいなら、死を選ぶ。

なかなかできないことだ。この世には未練があったろう。執着があったはずだ。それを断ちきった。立派だったよ。麗子。おれは麗子の最後の選択せ尊重する。

麗子の尊厳死を侮辱するヤツはゆるせない。一度死んだものは、生き返ってはいけない。死を選んだものを呼びもどしてはいけないのだ。

吸血鬼は忽然と消えていた。

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