第四章の9


 野田はケイコからなにもきいていなかった。渡瀬大臣が足しげくゴルフに来ている。いままでになかったことだ。それだけの情報だった。情報の収集ははじまったばかりだったのだ。

 野田と竜夫にとって苛酷を極めた週末が過ぎた。

 あれいらい、ケイコからはなんの連絡もない。ケイコは野田の眼の前から消えてしまった。

街には初夏をおもわせる粘つくような熱気がただよっていた。

 野田はあれいらい、ケイコのことをおもい恐怖に支配されている。暑さは、あまり苦にならなかった。

 恐怖の源流はふた筋あった。ケイコとデートしていて、あののぼりつめたセックスの頂きの――あとでウットリとしていたときに、松尾たち黒服の凶漢に襲われた。編集室までつけられて、襲われた。

 それに、ああ、両親が野田が帰宅する数分前に襲われ、父は射殺された。母は石橋にある自冶医大の集中治療室だ。とても信じられない事件ばかりつづく。

ケイコから、よほど重大なネタを聞きだしている。そう勘繰られている。なにも、聞いていないのに――。なにも、知らないのに――。

ふたり一組。竜夫とのバデイで行動することが義務付けられた。デスクからの指示だ。いつなんどき、またあの黒服が襲撃してくるか、予測不能な現況だった。適切な指示だ。

 一人で家にいては危険なので、野田は自宅には帰らず竜夫のいる餃子館の最上階のウイクリ―マンションに同居した。

 竜夫が恐れているのは、拳銃による襲撃だった。

 いつから日本はこんなブッソウナ国になってしまったのだ。

 いくら飛び道具の新式ボーガンや、古武道で鍛えた肉体を有していても、白昼から火器をブッパナサレタのでは太刀打ちできない。

 ふたりは「マロニエ」の扉を押した。

 竜夫には、ここマロニエは麗子とすごした愛の波動がまだ漂っている。このマロニエのカウンターには麗子の霊体が生きている。ひとはときとして忘れたくないことを、忘れようとする。どうしても、忘れたいとムダな努力を重ねる。それでも、どうしても忘れられないことがあると終いには悟る。そこで失ったモノへの悲しみがさらに深まる。麗子との交情がここの空気には含まれている。麗子の嬌声。なやましいうめき声、愛のささやきがここには重く留まっている。

カウンターにはメコンがいた。メコンの隣には、イメージの麗子が立っている。

「竜夫、しばらくぶりね。元気してたぁ」

「あまり、元気じゃない。タコ焼屋の攻勢はどうだ」

「コウセイ? 交性? 性交のこと?」

「攻める勢いのこと」

「あら、日本の言葉むずかしい」

「オカシナモノ見ちゃったよ」

 メグがマロニエに飛びこんできた。

「よかった。竜ちゃんも野田さんもいる。ラツキー」

「なにを見たの?」とメコン。

 竜夫と野田は、堪えて、まった。

 メグは息をはずませている。目撃したことを話しだすのに、どこから始めようかと整理しているようだ。

「夙川ビルの裏口を見張っていたの。だって麗子ママがあんなふうに死んじゃって、またVが出没してるはずだと思ったから。そしたらぁ――オカシナものみちゃった。黒のワンボックスカーから――松葉づえ突いたケガした人をおろしたのよ。あいつら、すごく凶暴な風体だった。黒づくめでさ」

「親父が撃ったんだ。親父は暴力団から押収した拳銃を定年になったときに、記念品だ、おれが刑事であった証に、あえて法を犯してもちかえった――そんなこといっていた」

「無抵抗で殺されたわけではないんだ」

[親父が発砲したすぐあとにぼくは帰宅した。発砲音は三発聞いた。でもぼくを拉致しようとした連中はふたりで、前に二度襲われたから顔は覚えているがふたりだけだった。小柄な男がいなかった」

「あのチビが野田のオヤジさんに撃たれたのだ。後部座席に横になっていれば――気づかない」

「そう言えば……うめき声かしていたような……」

「それだよ。そしておれが直ぐ、駆けつけたから――草太を強引に連れ去ろうとしたのは失敗した」

「なにかケイコさんのこと訊かれなかったか」

「ケイコのことはなにも――。竜夫のかけつけるのが早かったから……」

「アイツラに、にケイコさんも狙われていた」

「あんたたちこそ危険よ。話聞いてみると、そのケイコさん、かなりヤバいネタ掴んでるんだね」メグとメコンが心配顔で二人を見つめる。

「このネタたしかに、ヤバすぎる。なにも聞いてない。知らないのに、こんな危険な目にあっている」

「記者って鼻が効かなきゃダメなんだ。街角ですれ違ったひとの顔の色をよみしれなかったらダメなんだ。携帯していても、周囲の物音を警戒しなければダメなんだ。取材先での雰囲気。すべての事象に興味をもたなければ……」

「竜ちゃん、表で車が止まった――」

「ここに車で飲みに来る客なんていない」

「メグがつけられていた。いや、おれたちかもしれない」

「二階だ。颯太。二階に逃げよう」

「おれたちは、二階にいると言っていいからな」

 メグとメコンに言い残すとふたりは素早く二階にかけあがった。二階の廊下はどの店ともつながっていた。共同の通路だ。いちばん隅の店の裏の非常階段まで走って逃げた。マロニエの裏口は見張られているかもしれない。

 鉄骨の階段を音をコロシテ下りた。さいわいだれもいない。携帯が鳴った。ドギツとした。竜夫は小声で話し出す。岡田からだった。

「わかった。迎に来てよ。直ぐ、近所まで来てるのか。店のちかくではまずい。駅東口の餃子館の前で――」

「事件か?」

「ああ。氏家の那須不動産屋の社長、那須与十郎さんが首吊り自殺をした。その取材に岡田の車に乗せてもらう」

「どうしてこうも不動産屋の自殺がつづくのだ」

 

宇都宮の市街をぬけると広大な那須野ガ原が目前にひらける。運転は岡田。竜夫と野田は後部座席で、この展望を眺めながら現状分析を始める。岡田にも聞いて置いてもらいたい。

日光県の政治家の先生がたが那須に首都機能移転を計り日本の地方再生を狙うのもわかる。土地ならいくらでもある。明治維新に功績のなかった東北は以来政治の中枢からはおいてきぼりだ。東北の玄関口の那須に首都機能が移転すれば、潤うのは日光県だけではない。

 ときおり、一流企業のロゴ入りの巨大な看板と誘致した工場群が遠望できる。

竜夫は大野警部補に電話する。

「中藤です」

 相手がハッと息をのむ。

「なにしているんだ。野田先輩の殺人現場からいなくなったきり連絡よこさないで。野田君はブジなんだろうな」

「ブジですよ。あれからは、ずっと二人で行動しています」

「なにかつかんでいるな。不動産屋のオヤジがひとり死んだくらいで、おまえら三人がなぜ矢板まで取材なんだ。ひとりですむことだろうが」

「だから、ぼくと野田は怪しげな黒服から逃げてるんです。会社まで襲われてるんですよ。それより、野田の両親は、ヤハリ、野田ガラミデ、息子のトラブルをカブってころされたのですか」

 かたわらで聞いている野田には酷だとおもったが、スバリ訊くしかなかった。

 大野警部補と話しながら竜夫はメモをとった。

 野田の父→兵庫県警→犯人と顔見知り→関西の黒服→殺し屋?→発砲→どちらがさき→なぜ→妻まで→顔をみられたから?

「記者がこんなアブナイことにまきこまれるとは思わなかった」

「なに言っている。野田のところは、警察官の家族だろう」

「だって、いまのような危険なことはなかった。はやくいつもの日常にもどりたいよ」

「いやこれも平凡な日常と地つづきなんだ。この瞬間だって、立派な日常なんだ。異界にとびこんだわけではない」

 竜夫は吸血鬼との遭遇を思っていた。あれこそ異界だ。どんな凶悪な事件でも、ひとの起こす事件なんか怖くはない。

「そういうことだよ」と岡田が運転しながら竜夫に同意した。野田を励ましている。

「県警に詰めの記者をしていると、毎日のように事件が起きているのがわかる。この世は暴力がまかりとおっている」

 矢板市内にはいった。葬儀場はすぐにわかった。正面から入る。受け付にひとが並んで

いた。

「大臣の秘書の山田が来ている」

岡田が野田に囁きかけている。山田は風呂敷包みをかかえている。

 竜夫は山田のことはよく知っていた。山田は大臣の秘書になる前は、父の道場、古武道中藤流の師範代をつとめていた。宇都宮にもどってきたときも、駅でたまたま会っている。あのときが、夙川組の構成員とは初対面だった。

「葬儀だからと言って金品の授与はまずいんじゃないの」

岡田がこんどは竜夫に小声でいう。

 山田は風呂敷包みをといた。絵がでてきた。平凡な額だった。机の上に置いてオクヤミの言葉を紋切り型に告げている。遺族となにか話している。たぶんあれが未亡人だろう。

「撮ったか、野田ちゃん」

「バッチリデスヨ。岡ちゃん」

 野田はショルダーバックにカメラをしこませていた。

 

午後八時ごろ社にもどった。地下の駐車場に車をいれて入り口のシャッターは下した。

 編集室はまだ明かりがついていた。ヤケに静かだが――。みな野田の身にふりかかった悲劇をしっているのだ。

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