第三章の6


 弛緩していた麗子の顔に表情がもどった。

正気が回復したわけではない。

おれの血を飲めという竜夫の呼びかけに必死で反応している。

「できない、できない。竜ちゃんの血が飲めるわけがない。できない。そんなこと、できない」

苦痛に顔をゆがませながら、竜夫の手に必死ですがる。麗子の手は震えている。ああ、麗子、どうしてこんなことになってしまつたのだ。おれがついていながら、麗子が西の吸血鬼の犠牲になるのを止められなかった。

「血を飲まないとどうなるの」

「吸血鬼になるか、血への涸渇に耐えられずに」

「……耐えられずに、死ぬの」

「とりあえず、輸血をたのもう。おれは吸血鬼マスターと対決する。あいつを倒さない限り、噛まれたものは、苦しみながら血を欲しがる」

 

 竜夫は夙川ビルの地下二階の駐車場に忍び込んだ。

Qの棺のあった薄暗闇の地下室だ。カビ臭い土のにおいがする。

ここにくるのは、これで三度目だ。空虚な広いコンクリートの空間は、墓地のようにひっそりとしている。

そういえば、このじめじめとした棺の臭い。これは墓場の土の臭いだ。マスターはどこだ。血を飲みたがってくるしんいる麗子を思いながら広い空間を見る。

棺が消えている。

 竜夫の嗅覚がとらえた。

鋭敏な嗅覚に、腐臭――棺の残り香が漂ってきた。

竜夫は走りだしていた。

不意に、天井から黒い幕が降ってきた。

頭から真っ黒な袋を被せられたようだ。

視界が閉ざされた。

なにかにっつかれているような痛み。

コウモリだ。

天井からぶらさがっていたコウモリが襲ってきた。

侵入者に怒り攻撃をしかけてきたのだ。

ばたばたという羽ばたきが駐車場に充満する。

キイキイという、不気味な鳴き声がひびく。

蝙蝠だ。

こうもりだ。

コウモリダ。

異臭が濃厚になる。

コウモリの糞の臭いが、腐った土の臭いに混入する。

天井にこびりついていたコウモリの排泄物が、羽ばたきの振動をうけて、いっせいに落ちてきたのだ。あまりの悪臭に嘔吐こみあげてくる。頭がふらつく。

それでも竜夫はタアッと気合いをかけた。

体を回転させる。

手刀をふるう。

衣服は何か所もひき裂かれていた。

「どうした!! ハンター。このにおいに耐えられるか。コウモリの攻撃をどうかわす。どうした。あがいているだけか」

 Qの声が嘲笑っている。

録音されたような声だ。

合成音のようにもきこえる。

キーンとなって三半規管がおかしくなる。

体までふらつく。

ベッドで苦しむ麗子をイメージしてその音波に耐えた。

麗子。まっていてくれ。

コイツはおれが倒す。倒す。

「マスターか。姿をあらわして勝負しろ。それともまだ傷が治らないのか」

「バカな。かってに、ホザイテイロ」

 竜夫は襲ってくるコウモリを避けて後退する。

エレベーターにとび乗る。

誰も乗っていない。

扉が閉まる。

追いかけてきてたコウモリが首を挟まれる。

首がつぶれる。

ちぎれた。

ボックスの床に落ちた。

まだギギ不気味に鳴いている。

その生命力。信じられない。

 階位表示をプッシュしようとした。

すでに動き出していた。

一階をいちおう押したが、止まらない。

上り続けている。コントロールがきかない。

マスコミで騒がれている、欠陥のあるエレベーター。

S社の製品かもしれない。

扉の開閉や階位表示がきかないどころか、もしこの床がこけたらどうしょう。

エレベーターは静かに上りつづけている。

竜夫の心はおだやかではない。これからなにが起きるのか。このビルはこんなに高いのか。不安になってきたところで、停止した。

最上階14階。うそだ。時間がかかりすぎている。

このビルの階は13階までではなかったのか。その上の階の上まで上った。

それだけの時間はかかっていた。でも、階位表示は14階となっている。

このビルには無い階位で、怪異現象にとりこまれている。と語呂合わせをして――心を平常心にもどす。

おおきく息を吸った。おびえきった竜夫をあざ笑うように、扉がするするとひらく。どうやら、招待されている。


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