艱難辛苦 汝を玉にす 2
麗らかな春。玄関のドアを開けると、柔らかい日射しと裏腹に、肌寒い風が吹き抜ける。
空の色は滲んだような薄い水色で、どこからか風に乗って桜の花弁が舞ってきた。
一年前のことを思い出す。千尋が入学したときと同じ、晴れて心地好い天気だ。
今日は新入生が入ってくる日だ。
千尋はあの時のように胸いっぱいに新しい空気を吸って、今日という一日に心を踊らせる。
「早いもんよねぇ。千尋ももう二年生かぁ」
母、
その視線を受けた千尋は、なんだか気恥ずかしくなって、くるりと背を向けた。
一歩踏み出すと、お気に入りだった靴の中で、爪先がこつんと当たる。
「あれ」
「キツイ?」
「そうかも」
「背も伸びたもんね」
――え?
千尋は自分の身体を見下ろして、首を傾げた。
自分ではよくわからない……というよりも、常に自分より頭一つは大きい正親が隣にいるせいか大きくなったという実感がない。
「制服、すこしサイズが合ってきたでしょ」
「たしかに、そうかも」
親指の付け根近くまであった袖が、今は腕を伸ばせば手首が見える。
――そっか、僕、大きくなってたんだ。
正親の背は越えられないにしても、恋人の
幸と目線の高さが変わらないことはすこし気になっていた。
この変化は素直に嬉しい。
「行ってきまーす!」
朝子の「行ってらっしゃい」を背中で聞きながら、千尋は桜舞う空の下へと駆け出して行った。
千尋が学校の正門へ向かうと、そこには新入生の保護者が集まって賑わっていた。
桜の木の下で、我が子の門出を記念に写真に収めているようだ。
その光景に懐かしさを感じながらも、その間を潜り抜けて校舎へと向かう。
この中から何人自分の『後輩』が出来るだろうか。
美術部も書道部も、人数が少ないため、出来れば多くの新入生が入部してくれたら嬉しい。
その中から書道パフォーマンスに興味を示してくれたら、と期待が膨らむ。
「おはようございます」
玄関には簡易のテーブルが並べられ、先生と新入生がクラスを確認している。
立っている男性の先生に声をかけると、先生は千尋に「おはよう」と微笑んだ。
「新入生?」
「いえ、在校生です」
「三年は三年の教室に集まって貰って、部活紹介で来てる子はそれぞれ部室に集まってもらっていいかな」
「はい。ありがとうございます」
千尋はまだ自分のクラスが発表されていないので、疎らに使われている二年の下駄箱に適当に入れさせてもらった。
三年は合唱もあるため全員参加になっているけれど、二年は部活紹介に参加する生徒のみになっているから、今日登校している生徒は一部だろう。
幸も吹奏楽部に所属していて、今日は登校すると言っていた。
下駄箱をくるりと見回して、また同じクラスになれたらいいなと思った。
それから、書道部の部室へ一歩入った瞬間だった。
「おはようござ――って、なにしてんだよ! そんなところで!」
入り口の横で虚ろな表情で立っている正親に、千尋は飛び上がるほどに驚いて、早鐘のように鳴る胸を押さえた。
壁のように感じる、同い年には見えない百七十センチある背丈。程好く筋肉が付いて均整の取れた、モデルのようなスタイル。
日の光に透けると金にも見える、相変わらず前髪を覆っているボサボサ髪。
獅子屋 正親は今日も格好良い。
髪型以外、だが。
「っていうか、僕、髪を整えておけって言ったよな」
千尋が声をかけても、聞こえていないかのように正親から反応はない。
緊張をしているのかとも考えたけれど、正親が書道パフォーマンスに関して緊張をするような人物ではないことを思い出して首を傾げる。
――じゃあ、一体なにが彼の心を乱しているのか。
「はよー、千尋」
「おはよう」
千尋の後ろの入り口から、同じ書道部の早川が顔を覗かせた。
手を払うように振っている仕種から、トイレにでも行ってきたのだろう。
「なあ、獅子屋のヤツどうしたんだ? めっちゃ早く来てたけど、ずっとあの調子でさ」
「それは、僕が知りたい」
「なんだ、千尋と喧嘩したじゃないのか。大丈夫かよ、そんな状態で書道パフォーマンスできるのか?」
たしかに、と正親の方を見ると、急に勢いよく顔を上げた。
揺れた前髪の隙間から、見開かれた獣みたいな目が覗く。
早川の『書道パフォーマンス』という単語に反応したのかもしれない。
「正親?」
「あー……よう、千尋」
「どうした。具合でも悪い?」
「いや……なんでも、ない」
歯切れの悪い返事に、それ以上突っ込んでいいものか迷う。
今まで調子が悪かったとしても、こんなに話し辛そうにしているところを見たことがない。
「正ち――」
「みんな揃っとるかなぁ?」
千尋が決心して正親に声を掛けようとしたところで、部長の
品の良さそうな狐顔は、今日もにんまりと楽しそうに笑っている。
「そしたら、そろそろ体育館の前行きましょか。
ええかー、みんな。気合入れて新入部員確保せな、経費も削られて、いずれ廃部やからな」
指を一つずつ折りながら、屋古が説明をする。
その度に部員の表情は強張っていく。
ここに居るのは二年生ばかりだから、廃部になってしまえば二年間も書道部のない生活があるかも知れない。
「こえぇー」
「最高の脅し文句だよな」
「さあ、行くで」
千尋は、欠伸一つしていない正親の背を見澄ましながら、最後尾をついて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます