男は敷居を跨げば七人の敵あり 4
「千尋……」
獅子屋の一回り大きな右手が、千尋の肩に置かれた。
「言いたいことは、それだけか」
言うなり、獅子屋はしゃがんで千尋の腰辺りを肩に乗せると、軽々と俵のようにして運び、ベッドの上に転がした。
「学園祭に出たいなら、とりあえず休んで早く病気を治しやがれ」
「そんな時間が」
「時間が無いなら尚更だろ」
見下ろしてくる獅子屋は、さながら阿修羅像のようだ。
圧倒されて、千尋は口を噤む。
「治って帰ってきたら、今までで一番いいパフォーマンスが出来る。オレはそう信じてる」
前髪から覗く獅子屋の目は、真っ直ぐに千尋を捉えている。
獅子屋は決して慰めで言っているわけではない。
本当にそう信じているのだ。
「千尋のお友達?」
朝子が声をかけると、獅子屋は丁寧にお辞儀をした。
いつもだらしないくせに、挨拶の所作は綺麗で、まるで別人のようだ。
「初めまして。一緒に書道パフォーマンスをさせて頂いています、獅子屋 正親です」
「あら、ご丁寧に。千尋の母の朝子です。貴方が獅子屋くんね」
いつも千尋がお世話になってます、などと挨拶を交わした後、朝子は小さく悲鳴を上げた。
「千尋、点滴抜いたわね!」
「あ」
左腕から血が垂れて、ベッドに染みを作っていた。よく見れば、床にも血痕が残っている。
ナースコールで来てくれた平田にも怒られてしょぼくれていると、様子を見ていた獅子屋に口の形だけで「ばーか」と言われた。
点滴の針を刺しなおして貰い、朝子が入院の手続きで病室を離れると、カーテンで仕切られた中に獅子屋と二人きりになった。
部屋に備えられている折り畳みの椅子に、獅子屋は腰を下ろした。
長い足を組んで背凭れにどっかり座っている。
「……ごめん」
「なにが」
「もし、僕が間に合わなかったら、屋古先輩にお願いして――」
「それ、本気で言ってるならキレるぞ」
そうだ。獅子屋は、間に合わないなんて考えていない。
「……ごめん。弱気になってた」
千尋は顔を上げた。
「全力で治すから、待っててくれ」
「おう」
獅子屋はその言葉を待っていたように、歯を見せて笑った。
カーテンが少しだけ開いて、朝子が顔を覗かせた。
「ごめんね、獅子屋くん。見張っていてくれてありがとうね」
「いえ、じゃあオレは帰ります」
「今度、家にも来て頂戴よ。書道パフォーマンスの話を聞かせて欲しいわ」
「はい。それでは」
去っていく獅子屋の背を見送り、入れ代わりに来た朝子から持ってきた入院セットの説明を受ける。
急な入院だったにも関わらず、使うものは一通り揃っていた。
「あ、あとスマホ。ずっと鳴ってたから、あとで返事してあげなさいね」
「うん。ごめんね、母さん。やっぱり、ちゃんと母さんの話を聞いておけばよかった」
朝子は両手で千尋の頬を優しく包むと微笑んだ。
ひんやりとしていて気持ちいい。
「そうね、聞いておけばこうならなかったわね。
でも、母さん嬉しかったのよ。あんた全然反発とか主張とかしないから、いつまでも大人しい子のままでいるのかなって思ってた」
千尋は、そうだったろうか、と過去を振り返る。
たしかに、大人しい子ではあったように思う。
「後悔してるなら、次同じ事をやったらひっぱたくからね」
朝子はそのまま千尋の頬を引っ張って遊ぶと、腰を上げた。
「うん。あ、母さんひとつだけいい?」
「なあに?」
「書道道具だけ持ってきてほしいんだ」
「わかった。明日持ってきてあげる。じゃあ、母さん帰るわね。何かあったら連絡して」
千尋も入院に慣れていれば、朝子も千尋の入院になれている。
すっかり息子をお泊まりに行かすような感覚で、朝子は帰っていった。
翌日、朝から診察と検査で慌しかった。
昔から馴染みのおじいちゃん先生が、胸部のレントゲン写真をまじまじと見ながら頷いた。
「軽い肺炎だね」
「先生、いつ退院できますか?」
千尋は膝の上の両手をぐっと握った。
「今朝はまだ熱があったみたいだし、明後日まで様子見ようか」
「……明後日」
「千尋くん、急がば回れだよ。体の声にも耳を傾けてあげないと、わたしの年まで生きれないよ」
おじいちゃん先生は、千尋の知る限りずっとおじいちゃんだったため、いくつなのかわからない。
「よく食べて、よく休みなさい。今の君にはそれが必要だ」
「……はい」
検査もあるからと、今朝は点滴をしていなかったため、千尋は公弘たちがお見舞いに来ることを予想して売店に立ち寄ることにした。
お菓子は持ってくるかもしれないので、なにか飲み物を――と物色していると、後ろから入院着の裾を引かれた。
「……羽鳥くん」
「八乙女さん」
今日は平日で、まだ昼前だ。
彼女が何故ここにいるのかわからなくて、混乱する。
すると幸は唇に人差し指を当てて、「サボっちゃった」と小さな声で打ち明けた。
二人は買い物を済ませて、千尋の病室のある三階へとエレベーターで上がった。
三階の廊下の突き当たりに、休憩スペースが設けられている。
奥にドアがあり、その向こうに小さなバルコニーがある。
千尋がドアを開けると、幸は羽を感じさせるような軽やかさでバルコニーへ降り立った。
「わー、懐かしい」
爽やかな風が幸の髪を攫いながら吹き抜けていく。
飛び降り防止柵との間に植えられた植物達が青々と茂っている。
「来た事があるの?」
柵によりかかり遠くを見つめていた幸は、振り返ると肯いた。
「わたしが入院していたんじゃないんだけどね」
ひとつだけ備え付けられたベンチに、二人は腰掛けて、ジュースとおやつを広げた。
幸はお腹が空いた、無邪気にお菓子に手を伸ばした。
そして、千尋の問いかける視線に答えた。
「……おばあちゃんがね、入院していたの」
その一言で、今まで千尋が感じていた幸への懐かしさの理由が解かった。
―― 夕方の虹は、晴れるんだよ。
千尋に絵を描く楽しさを教えてくれたおばあちゃんが、そう言っていた。
本当に次の日に晴れたものだから、おばあちゃんは魔法使いなんだと思っていた。
なんで、今まで忘れていたのだろうか。
幸とは、どうやって巡りあっていたのだろうか。
「ほんとはね、羽鳥くんのこと、昔から知ってたんだ」
そして、幸がまたお菓子を摘む。
「それって」
「今は内緒」
幸がはにかみながら、さらりと流れる髪を耳にかけた。耳がほんのり染まっているのに気付いて、千尋は思わず目を逸らした。
千尋としても、答えがおあずけでよかったと思った。
病院着で告白はなんとも格好がつかない。
「羽鳥くん、早く帰ってきてね」
「僕はもう帰りたいくらいだよ。今週だけお休みもらうと思うけど、なるべく早く帰る」
「うん、待ってるね」
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