男は敷居を跨げば七人の敵あり 5
幸をエレベーターまで見送った後、病室に戻ると丁度昼食の時間になった。
平田が満面の笑顔で配膳してくれる。
千尋は嫌な予感に顔を引きつらせた。
「彼女?」
「違います」
「顔赤くしちゃって」
「きっと、熱のせいですよ」
「はいはい。じゃあ、これ食後に飲んでね。食べ終わったら、また点滴しに来るから」
「平田さんがやってくれるといいな、上手いし」
幼少期に針が上手く血管を捉えられずに苦労したのは、結構トラウマだ。
「昨日、誰かさんがせっかく刺したのを抜いちゃったけどね」
ぐうの音も出ない。
「じゃあ、よく噛んで召し上がれ」
「いただきます」
食べ終わり、点滴を始めた頃に朝子が書道道具を持ってきてくれた。
けれど、書道をするどころか、朝子と二言三言話しているうちに眠気が来て、目覚めるともう日が西に傾いていた。
「お、千尋起きた?」
寝る前に朝子が居た椅子に勇樹が、ベッドに公弘が腰掛けていた。
「よく寝てたな」
「来たなら起こしてくれたらよかったのに」
「そんなに経ってないよ。十分くらい」
勇樹が腕時計で確認をする。
「今何時?」
「四時半」
千尋は体を起こすと、点滴の管が引っかからないように背伸びをした。
夏休みに何度か遊んでいたのに、もう久しぶりのように感じる。
「大丈夫か?」
「うん。肺炎起こしてたみたい」
「頑張りすぎだって」
「千尋らしいっちゃらしいか」
「たしかに」
三人で運動会の話で盛り上がっていると、勇樹がすっと立ち上がった。
「勇樹?」
そして、勇樹は病室の前で立ち止まると、廊下の誰かに向かって話しかけた。
「千尋と同じ五組の生徒だよね? 入らないの?」
「いや、オレは……」
「まあまあ、そう仰らず」
勇樹に背中を押されて入ってきたのは、赤井だった。
「……よう」
気まずそうに視線を逸らす赤井と、真っ直ぐに彼を見つめる千尋。
「じゃあ、オレ達は帰ろうか」
「え、まだ来たばっかだろ」
「いいからいいから。千尋、またラインするよ」
垂れ目が特徴的な勇樹の左目が、ウインクをした。
赤井と二人にしたほうがいいと察したのだろう。気の使い方が勇樹らしい。
「座れば?」
「……ああ」
こうして赤井と二人きりになるのは、学校も含めて初めてだ。
二人は重苦しい沈黙の中で、話すきっかけを探している。
「ごめん」
最初に口を開いたのは、千尋だった。
「きっと、赤井はクラスのためを思って運動会を休むことを勧めたと思う。でも、僕は出たい。こうなった今でもその気持ちは変わらない」
赤井は千尋の視線を受けて、深く深く溜息を吐いた。
「……そういう意味じゃねーよ」
居心地悪そうに、体を動かしながら、赤井は何かを伝えようとしているようだった。
とろりとした真っ赤な夕陽が部屋に差し込んでくる。
「お前と獅子屋が校舎の周りを走ってるの見たことある。正直、めっちゃ遅くて引いた。でも、そのくらいしないと書道ができねーやつに運動会出れんのかって、思って」
「あー……」
「別に、お前に出るなって言ってねーよ。どっちかしか出来ないのに無理されて、ぐちゃぐちゃにされたくない。中途半端なヤツが嫌いなだけだ」
誤解をしていたのかもしれない。
赤井は確かによくふざけていて、先生に注意されるし、反感を買うことが多い。
席替えのときも、千尋に対して悪態をついてきたこともあったけれど、ずっと赤井を慕っている人も中にはいる。
「僕は赤井や獅子屋ほど速く走れないけれど、全力で走るよ。それだけは約束する」
「……そーかよ」
こうして態々お見舞いに来たり、千尋の意思を確かめたり……彼はただ不器用なだけなのだろう。
「ありがとうな、お見舞いに来てくれて」
「ああ、早く治せよな」
赤井が病室から去っていくのを見届けて、ラインに入っていた心配のメッセージに返信を終えてしまうと、すっかり手持ち無沙汰になった。
――そういえば、母さんが書道道具持ってきてくれたんじゃなかったっけ。
そっと抜け出して、病室のトイレにある洗面台から水を取ってくる。
時間はたっぷりあるから、と墨は磨って作ることにした。
水の中に、少しずつ黒が混ざっていく。
鼻腔を擽る、墨の匂い。
「へー。若いのに、いい趣味だね」
カーテンから、ひょこっと顔を出したのは、眠たげな目をした少し年上の男だった。
千尋が驚いて固まっているのに気付いて、頭を下げる。
「オレは同室の室井です。東南高の二年」
「あ、挨拶が遅れてすみません。僕は羽鳥です。東南中一年です」
「そうなんだ! オレも東南中を卒業してるよ」
「じゃあ、先輩なんですね」
「うんうん。君、書道部なの?」
「いえ、書道パフォーマンスをしているんです。獅子屋ってやつと二人でなんですけどね」
「書道パフォーマンス?」
室井は一瞬きょとんとした表情を浮かべたあと、にこっと笑った。
「そっか、頑張ってね」
「ありがとうございます」
カーテンが閉められる。
室井はスマホを取り出すと、獅子屋と表示された人物に向けてメッセージを送った。
「獅子屋、ね」
それから、二日後。千尋は無事に退院をして、土日を挟んで登校をした。
一時間目の体育。
千尋は入念に体を解して、トラックを一周走った。
あれだけ重かった体が嘘のように軽い。
お気に入りの黒いスニーカーが、どこまでも遠くへと連れてってくれるように感じた。
そして、リレーの練習。
赤井を信じて、少しだけ早く駆け出す。
「はい!」
赤井の合図が聞こえる。
テイクオーバーゾーンのぎりぎりで、千尋の指先にバトンが届いた。
――僕は赤井や獅子屋ほど速く走れないけれど、全力で走るよ。それだけは約束する。
千尋は思いっきり大地を蹴るようにして走った。
次の走者、広瀬がゆるゆると走り出す。
「はい!」
広瀬の背中に向けて声を上げる。
広瀬の手にしっかりバトンを渡して、コースから外れる。
千尋はバトンを握っていた手を見つめると、ぐっと握り締めた。
そして放課後。
「なんや、羽鳥くん。随分思い切りよおなったなぁ」
「そうですか?」
屋古に褒められると、素直に嬉しい。
千尋の表情が弛む。
「入院して別人になってきたんかと思ったわ」
「案外別人かもしんねーっすよ」
「人は変わってませんよ! でもまあ、同室に書道やってる人がいて、ちょっと教わったんですよね」
「へー。ええ人がおったなぁ。ま、なんにせよ、これで本番も安心やな」
学園祭まであと十日。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます