男は敷居を跨げば七人の敵あり 3



 翌日はとても気持ちのよい快晴だった。天が高くて、爽やかな秋の空が広がっている。

 六時間目の体育は、運動会のリレーのバトンパスの練習をすることになった。

 トラックの半周をタイムの速い人と遅い人が交互に繋いでいく。

 一周しなければならないアンカーの役目は、運動部を差し置いて獅子屋が走ることになっていた。

 準備体操を入念にしながら、コンディションを確認する。

 六時間目ということもあって、多少疲れはあったものの、昨日よりは幾分調子がいい。咳も、治まってきている気がする。

 走っても大丈夫だと判断し、朝子の言いつけには反してないと信じる。

 千尋は赤井からバトンを受け取って、広瀬へと渡すことになっている。


 ――こういうのを、因果っていうのかな。


 まさか、赤井から受け取ることになるとは思ってもみなかった。


「それじゃあ、実際にやってみるぞー」


 第一走者から、順に走っていく。

 千尋は見守りながら、中盤の自分の番を待った。

 一人、二人……半周だと、あっという間に自分の番が回ってくる。

 バトンを受け取るために、テイクオーバーゾーンへ並ぶ。

 赤井が最後の直線に入る前に少しだけ走り始めて、赤井の掛け声でバトンを受け取る。

 後ろを見ていると、タイムロスになる。前を見ながら受け取るつもりが、ゾーンぎりぎりまでうまく受け取れなかった。


 ――ヤバい。タイムロス!


 顔を上げて、全力で走る。

 しかし、気持ちに反して、体が上手く付いてきてくれない。

 息だけが上がる。鉛でも引きずっているかのように、景色の流れが遅い。

 次の走者、広瀬が見えてきた。

 バトン。そう、バトンを渡さなくては。


 あと、一メートル。


 なにかに躓いたかのように、足から力が抜けて、千尋の体は前へと崩れた。

 苦しくて咳き込む。


「羽鳥、大丈夫か!」

「羽鳥くん!」

「千尋、しっかりしろ!」


 悲鳴があちらこちらから聞こえて、その中に獅子屋の声が一際大きく聞こえた。


 ――なんて様だろう。


 千尋は、朝子の心配をあんな形で拒んだことを反省した。

 覗き込んでくるみんなの顔が歪む。

 その中に獅子屋と幸、松下、櫛田、広瀬……赤井の顔もあった。


 ――ごめん、獅子屋。今日の部活、行けそうにない。


 声になる前に、もう意識は闇へと沈んでいて、そのうちみんなの声も遠くなって、ぷつりと途絶えた。






 気が付くと、見慣れた天井だった。

 パリッとしたシーツ、左腕からのびる点滴の管。

 

 久しぶりの病院だ。


「目が覚めた?」


 看護師の平田は、千尋の右手首に小型の血圧計を付けて、体温計を脇へと差し込んだ。


「……お久しぶりです」

「いつ振りかしらね。中学上がったら戻ってこないでよって言ったのに。血圧は大丈夫ね。まだ熱があるみたいだけど、食欲はどう?」


 てきぱきと計測をしながら、平田はくすくすと笑う。


「食べます」


 食欲はないものの、担当医にぐちぐち言われる前に、しっかり食べねばならない。

 それに、早く学校に戻らなくては。


「それじゃあ、夕飯は用意するわね」


 この病院は五時に夕食が用意される。


 ――まだ、五時前なのか。


「平田さん、今回どのくらい入院することになる?」


 平田は眉根を寄せて、「まだ、わからないわ」と一言呟いた。


「……大丈夫。頑張って治しましょうね」


 カーテンが引かれて、千尋は一人になった。

 個室ではないけれど、同じ部屋に誰が居ようと、生活音が聞こえてこようと、カーテンの中は一人ぼっちだ。

 平田は千尋を慰めるために大丈夫と言ったはずだ。

 けれど、その言葉では千尋の内にある焦燥感は消えなかった。


 美術部の作品は出来上がっている。

 飾るのは小山が采配してくれるだろう。

 リレーは、誰かが代わりに走ってくれるだろうか。


 では、書道パフォーマンスは?


 屋古だったら、代わりに書いてくれるかもしれない。


 ――僕の、代わりに。


 屋古の腕ならば、千尋よりもっといい字を書いてくれるかもしれない。

 獅子屋と屋古の並んだ姿を想像する。

 すらっと背の高い二人のことだ。きっと絵になる。


 頭の中がマイナス思考に満ちていく中で、胸の辺りが燃えるように熱い。


 千尋は左腕から伸びるの点滴の針を慣れた手付きで抜くと、ベッドの柵を使いながら体を起こした。

 体はだるいし、後頭部が重たい。

 ベッドサイドから足を投げ出すようにして、つるりとした病院の床にゆっくりと着地する。

 立ち上がると、回るような目眩に襲われて、壁に体を押し付けた。


 いやだ。


 乾いた喉から、咳が出る。

 苦しい。意識が霞んでいく。


 いやだ。こんなところに居たくない。

 僕は、獅子屋と書くんだ。

 リレーで走るんだ。

 学園祭に行くんだ。


 よろめきながらも、壁伝いに一歩一歩と進む。

 千尋のベッドは、出入り口付近だった。

 あと一歩で病室の外へ、というところで、目の前に白いシャツを着た人物が立ちはだかった。


「どこに行くつもりだ」


 クラスメイトの誰よりも低い声。

 毎日のように聞いて、もうすっかり耳馴染んだ声。



「獅子屋……」



 見上げると、獅子屋のボサボサな前髪の向こうの綺麗な猫目が鋭く光っていた。


「家に、帰るんだ」

「なに言ってんだよ」

「このままここに居たら、学園祭に出られないかもしれない! そんなの嫌だ!」

「ダメだ」

「お前に何がわかるんだよ!」


 獅子屋の拳が、千尋の前を過って、横の壁へと叩きつけられた。

 

「じゃあ、オレがどんだけ心配したか、お前はわかってんのか!」


 千尋は、冷や水を浴びせられた心地になった。

 自分の感情に必死で、周りのことなんて気にも留めなかった。

 倒れたときの、みんなの声が蘇ってくる。


「わかってないのはお前だろ」

「……でも、このままじゃ」


 冷静になったところで、一度溢れ出てきた不安は、もう治まりそうになかった。


「どうしろって言うんだよ」


 出てきた自分の声が、情けないくらい震えているのに気付いた。




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