男は敷居を跨げば七人の敵あり 2



 千尋たちの通う、市立東南中学校の学園祭『日昇祭にっしょうさい』は二日に分けて行われる。

 一日目は文化部の活動発表を中心としたもので、二日目は運動会だ。

 書道パフォーマンスは一日目の開会式で披露されること、今まで制作した作品は、書道部の前の廊下に貼って貰えることになった。

 あとは、千尋は美術部に、獅子屋は書道部に何作か展示をすることになっている。


「美術部のほうはどうなんだ?」


 まだ、昼間の熱が残る秋の夕暮れ。獅子屋と校門まで来た千尋は、「そうだなぁ」と口許に手を当てて考えている。


「この前の美術館への展示作も含めてるから、もう作品自体は出来上がってるって言ってもいいかな。あとは当日の飾りつけの相談くらい」

「そうか」

「それじゃあ、また明日な」

「ああ」


 千尋の背中を見送って、獅子屋も帰路についた。



 獅子屋と別れて、角を曲がった千尋は、足から崩れるようにしゃがみこんだ。

 口許を押さえて、溜め込んでいた咳を吐き出す。

 苦しくなって、咳の間に喘ぐように息をする。


 ――やばいなぁ。


 嫌な予感はここ暫くしていた。

 千尋は手の甲で口許を拭うと、膝から順にゆっくりとした動作で立ち上がる。

 通りすぎていく自転車に乗った生徒達の視線を浴びながら、千尋は家路を急いだ。少しでも、体を休ませねば。

 夏の暑さから打って変わり、八月末は小雨の日が続いた。

 急な気温変化と、美術部と書道パフォーマンス。挙句運動会の練習が重なって、だいぶ疲労が溜まっていたのもある。

 風邪かな、と気付いた瞬間に市販薬を飲んだけれど、体調は悪化していく一方だ。


「……ただいま」


 上がり框に背負ってきた学生鞄を下ろすと、やっと張っていた気が抜けた。

 そのまま前のめりに倒れそうになる。全速力で走ったかのように、体が重たい。


「おかえり」


 出迎えてくれるなり、母の朝子は千尋の額に手を宛がった。


「やっぱり、熱出てきたんじゃない?」

「……母さん」

「明日は学校休みなさい」


 千尋は朝子の手を振り払うと、靴を脱ぎ捨てて、荷物もそのままに部屋へと向かった。


「千尋!」


 ――僕は、今休む訳にはいかない。


 ベッドに仰向けに倒れこむ。

 咳をすると、やっぱり苦しくて、涙が滲んできた。

 腕で目を覆う。

 暗闇の中で、獅子屋のこと、そしてもう一人。……赤井のことを思い出した。





 赤井とは、席替えのときに一度衝突をした、千尋と同じ一年五組の生徒だ。

 それっきり、特に仲が良くも悪くもならないまま、日々を過ごしていた。

 ……運動会の練習が始まるまでは。


「羽鳥、どうせ運動会のほうは休むんだろ?」


 始業式の翌日。

 夏休み明けの倦怠感に包まれた教室で、授業と授業の間の五分休みのことだった。

 千尋が獅子屋と打ち合わせしていると、通りがかった赤井がそうぽつりと漏らした。


「え?」


 なんで、と問うまでもなく、赤井の表情で察した。

 上がっている口の端に、滲み出る悪意。


「……出るよ」

「クラス対抗のリレー、お前走れるわけ?」


 赤井の言葉に、思わず声を荒げそうになる。

 しかし、先に声を上げたのは千尋ではなく、獅子屋だった。


「走れるに決まってんだろ」


 獅子屋のボサボサの前髪の奥に、鋭く光が宿る。


「千尋は最近、校舎の周りを三周しても肩で息をしなくなってる。それともなにか、サッカー部の誰かさんは千尋一人のタイムでうちのクラスが負けるって思ってんのか?」


 ――獅子屋なりにフォローしてくれてる、んだよな?


 思わず獅子屋に突っ込みそうになるが、お陰で怒りが抜け落ちて、気持ちが楽になった。


「足、引っ張るなよ」


 赤井はそう言い残して、自分の席へと戻っていった。

 足を引っ張ってはいけない、と小学生の頃の千尋ならば思っていただろう。



 でも、今は――。







「……負けたくない」


 眦から零れた涙が、こめかみへと伝っていく。

 喉を焼くような咳も、潰されそうな胸の苦しさも、陽炎のように揺れる視界も、乗り越えたい。

 弱い自分に負けたくない。

 赤井を見ていると、自分の弱さを見せ付けられる。

 中学生になっても、何度か体育を休んでしまっている。

 獅子屋と部活前に走るようになっても、なかなか思うように体力は付かない。


「げほっ……」


 咳き込んでいると、軽いノックのあとにすぐドアが開いた。


「ほーら、我慢するから」


 朝子は、千尋を腕を引いて起き上がらせると、温かいレモネードの入ったマグカップを渡してくれた。

 レモネードの甘酸っぱい香りの中に、優しく漂う蜂蜜の香り。

 両手でくるむようにして受けとると、千尋は黄金色の揺れるレモネードを覗き込みながら、「……母さん、ごめんね」と呟いた。

 手を振り払うような真似をしたのは初めてだった。

 朝子はいつも千尋の意見を優先させてくれていたし、反発したくなるようなことは言わない。


「いいよ。あんたも男の子だったってことね」


 朝子は千尋の頭を撫でると、しゃがんで千尋の顔を見つめた。


「いい? 具合が悪くなったら我慢しないこと。ちゃんと休むこと。約束して頂戴」

「うん、わかった。気をつける」

「着替えてしっかりご飯食べなさい。薬飲まないと治らないわよ」


 食欲はないけれど、食べなければ学校に行かせて貰えないだろう。

 千尋は返事をして、とりあえずレモネードを飲むことにした。

 千尋の体調が悪化していることを、朝子は気付いていたはずだ。

 それでも、千尋の意思を優先してくれた。


 温かいレモネードが、ゆっくりと胃に落ちて、底から体を温めてくれた。







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