朝虹は雨 夕虹は晴れ

朝虹は雨 夕虹は晴れ 1


「千尋、折り畳み傘持っていってね」

「え?」

「今日から梅雨入りですって。お昼から雨が降るかもしれないって言ってたわよ」


 今朝、千尋の母、朝子がそう言っていたように、雨は予報通りに給食の時間から降ってきて、放課後、部活の時間になっても降り止むことを知らない。

 美術室は一階のため、室内に鬱陶しく蔓延はびこる湿気を少しでも追い出そうと、窓がほんの少し開けられていた。

 いつも騒々しい美術室は、誰もが集中してモデルを描きとっているために、鉛筆が紙の上を滑る音が響いている。

 先日、美術部の部長、小山こやまが提案して始まった人物のスケッチは週に一度行われ、今日で三回目になる。毎回、モデルとポーズを変えるというルールで、やっていない人の中から、くじ引きでモデルが選ばれることになった。

 今回は千尋と同じクラスの松下まつしたが選ばれた。彼は美術室の中心に椅子を置き、腰を下ろすと優雅に文庫本を読み始めた。まるで、モデルのために本を読んでいるというよりも、本を読んでいるから描けば、と言いそうな態だ。

 夏服に移行しているのもあって、ほっそりした身体に、長い手足。白い肌がよくわかる。座っているだけでも、モデルとしては文句のつけ様がないから、千尋もなにも言えずにいた。

 書き始めてすぐは先輩達が黄色い声を上げて楽しそうにしていたが、数分すると誰も口を開かずに手元に集中し始めた。

 腐っても美術部、ということだろうか。いつものふざけた態度からは想像できないくらい真面目で、同じ人とは思えない。

 千尋もスケッチブックに圧し掛かりそうなほど、前のめりになって描いていたけれど、ふと集中が途切れて顔を上げた。

 不安になるような薄暗い外。雨のせいで、生徒の気配は無くて、美術室は世界から切り離されているようだ。

 松下は窓側に向かって座っていて、先輩達は正面から描こうと固まっている。

 千尋は松下の左後ろから、彼の後姿を描いていた。

 窓から聞こえる雨の音。美術室の窓からは生徒用玄関が見える。

 外は鉛色の雲のせいで薄暗く、蛍光灯の明かりで窓ガラスに室内の様子が反射している。

 千尋はぼうっと反射する室内を見ていると、今まで本に視線を落としていた松下が顔を上げた。

 二人の視線が、窓越しに交差する。

 ……松下の涼やかな視線が、はっきりと千尋を捉えている。

 気を抜いていたのを見られたのが気恥ずかしくて、スケッチブックへと視線を戻した。

 絵はもう完成していたけれど、もう一度鉛筆を手に取って影を足した。

 松下は、お世辞抜きで絵が上手い。普段から油絵を描いていて、美術部員の中でも技術の高さが窺える。中でも千尋や他にも苦手としている部員の多い、人物画も建造物もちゃんと立体的になるように描けるところに感心している。

 自分と同じ年で、自分よりも技術を持っている松下に羨望を抱きつつ、負けられないと向上心の糧にしてきた。


 ――松下は僕のことなんとも思ってないだろうけど。


 千尋は自分の描いた松下の背中を指でなぞった。

 もう一人、背中を追っている人物が居る。

 獅子屋ししや 正親まさちか。千尋を書道パフォーマンスに誘ってきた人物だ。

 書道部に一緒に入ると、彼の才能を改めて目にすることになった。

 さらり、さらりと身体の一部のように自由に動く筆。

 出来上がった文字は、普段の獅子屋から想像出来ないほど繊細だ。

 未経験の千尋はまだ“とめ”“はね”“払い”を教わっている段階で、獅子屋のいる場所までは足元も及ばない。

 雨の音が強くなってきて、千尋は再び顔を上げた。

 そろそろ下校時刻なのもあって、生徒の姿がちらほら見える。その中で一際目立つ赤い傘と黒い傘の組み合わせ。

 傘の陰から見えた顔に、千尋の胸は跳ねた。

 黒い傘を差した獅子屋の隣に、赤い傘を差した幸が居た。

 二人の和やかな雰囲気に、目が離せなくて、千尋は自分の手をぎゅっと握り締めた。

 未だ、幸とは挨拶程度で自然に話せていなかった。


 ――あの二人、あんなに仲良かったっけ。


 教室でも、親しそうに話している様子はない。

 置いてきぼりを食らったような、切ない気持ちが胸に広がって、千尋は鉛筆を置いた。

 丁度タイミングよく、下校のチャイムが鳴って、部長の小山が慌てて帰る支度をするように告げた。

 みんなが慌しく片付ける中、松下が千尋のスケッチを覗き込んでいた。


 それから、千尋は抜け殻のような重たい体を引きずるように帰ってきた。

 家に着く頃には、雨がアスファルトに跳ねて、学生服のズボンの裾を濡らしてしまっていた。

 雨を疎ましいと強く思ったのは、初めてかもしれない。

 ……小学生のときは、傘に跳ねる水音や、水溜りに反射した景色を覗き込むのが楽しかったのに。


「おかえりなさい。お風呂沸いてるわよ」

「……うん」


 出迎えてくれた朝子は何も言わずに、千尋のカバンを持って行ってくれた。

 入れ替わるように、足元にミケが寄ってきたため、千尋はミケを抱き上げた。


「ただいま、ミケ」


 ミケはにゃあと鳴くと、顔を千尋の胸にぐりぐりと押し当てる。

 もしかしたら、落ち込んでいる自分を察してくれたのかもしれない。ミケの小さな額にキスをすると、日溜りのような匂いがした。












 

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