竜を画いて、睛を点ず

美澄 そら

始まりの黒板

始まりの黒板  1

 麗らかな春。玄関のドアを開けると、柔らかい日射しと裏腹に、肌寒い風が吹き抜ける。

 空の色は滲んだような薄い水色で、どこからか風に乗って桜の花弁が舞ってきた。

 羽鳥はとり 千尋ちひろは胸いっぱいに新しい空気を吸い込むと、玄関に見送りに来た母親を振り返った。


「じゃあ、僕先に行くからね」

「気を付けてね」


 先程散々千尋の写真撮影をしたおかげか、母親はご機嫌だ。千尋はやれやれ、と家を後にした。

 今日から中学生。三年間着ることを想定して、大きめに作られた真っ黒な学ラン。真新しい指定のバッグ。

 スニーカーも新調したから、身を包む何もかもが新鮮だ。

 浮かれないように、なんて思っていても、体が自然と軽くなる。地面の上をちゃんと歩けているだろうか。確認するように下を見ると、千尋が一目惚れした黒地に銀のラインが入っているスニーカーが目に映る。道路の脇ではタンポポが身を寄せるようにして咲いていた。

 住宅地を抜けると、河川に沿って桜が植えられている。十本近くあるどれもが盛りを迎えて、風に揺れている。


「千尋!」


 大きく手を振りながら、声をかけてきたのはつい先日卒業した朝陽小学校からの友達だ。

 高城たかしろ 勇樹ゆうきみなみ  公弘きみひろ

 今日からは同じ東南とうなん中学に通うことになる。


「同じクラスだといいな」

「五クラスあるんだろ? 同じクラスになれるかなぁ」


 小学校低学年の頃から野球をしている二人と並ぶと、千尋は幾分小柄に見える。


「千尋は部活とか入るのか?」

「部活かぁ……」


 勇樹も公弘も野球を続けるのだろうか。千尋は、少しだけ考えるような素振りをして、にんまり笑った。


「僕は美術部かなぁ」

「千尋、絵上手いもんな」

「そうだろ」


 千尋は胸を張ると、二人に気付かせないよう、いつも通りに振る舞った。


 千尋は幼い頃から病弱だった。

 手術こそはなかったものの、疲労からすぐに発熱を起こし、一度風邪を引けば、肺炎まで拗らせる。

 そのために年に一度は病院にお泊まりする羽目になっていた。

 お陰で病棟の上から下まで探検して回り、どこの階層の看護師さんとも顔見知りだ。

 それに入院生活の中で、老若男女問わず仲良くなれる、コミュニケーション能力も身に付けてきた。

 そうやって入院生活をポジティブに捉えてきたけれど、さすがに小学校の卒業式に出られなかったのは堪えた。

 勇樹と公弘が式の後、病院に見舞いに来てくれなかったら、千尋はこの体に生まれたことををずっと責め続けただろう。 


 のんびり他愛の無い会話をしている内に学校に着いた。ゆっくり歩いて十分程度だろうか。南向きの正門には千尋達と同じ、一回り大きめの制服を身に纏った学生と、その父兄が集まっている。

 校門を抜けて、左右に二本ずつ植えられた桜の木の下は、我が子の晴れ姿を撮影しようと順番待ちが出来ていた。

 その中を抜けて校庭を横切り、生徒用玄関に向かうと、入り口の前に先生が三人、折り畳み式の会議机に名簿を広げて待っていた。すでに数人の列ができていたため、勇樹、公弘と別の列に並ぶ。


「体育館で入学式が行われるので、それまで各クラスで待機していてください。お名前は?」

「羽鳥 千尋です」

「はーとーりー……あった。五組ね。一年の教室は北館の四階だからね。これを左胸に付けておいてください」


 赤い花飾りのついた安全ピンに、『祝入学』と書かれた札が付けられた物を受け取って――後ろに三人ほど並んで居たので――二人のクラスを聞く前にその場からするりと抜け出した。

 一年五組と掲げられた下駄箱には、すでにいくつか下足が入っている。千尋も自分の名前を探し当てて、そこに脱いだスニーカーを入れた。

 指定のバッグから、真っ黒の巾着に包まれた上履きを取り出して、ポンと投げるように床に置く。まだ染み一つない真っ白な上履きが、つるりとしたリノリウムの床にうっすら反射している。

 なんだか落ち着かなくて、キョロキョロと辺りを見回すと、自分と同じように、辺りを伺ってる新入生が何人かいることに気付いた。

 そぞろだった気持ちをなんとか落ち着けると、壁一面を埋めるほどの大きな油絵が目に入ってきた。青々とした広大な山と、手前には果樹がたわわに実っている風景画だ。全体的に明るい色合いが、入り口から射し込む光と併せて、雰囲気を朗らかにしている。

 千尋の気持ちも、背を押されたように上向きになっていく。


 ――よし。これから、頑張ろう。


 小学生の頃に出来なかったイベントを、中学ではこなしていくんだ。

 そう決意をして、千尋が上履きに履き替えた瞬間、隣に音を立てて上履きが落とされた。千尋の物よりも一回り大きな上履き。

 思わず音を立てた主に目を向ける。


 ――で、でかい……。


 態度だけではない。その図体だ。

 千尋は百五十センチ無い程度で、同世代のなかではやや低いか普通なほうだ。それが、顔を少しあげなければ、彼の顔まで見えない。

 父兄か先生だろうかとも思ったが、千尋と同じ綻び一つ無い学ランが、同級生だと主張している。

 彼は千尋のことなど、眼中にないのだろう。履き替えると、爪先で床を数回蹴って、すたすたと行ってしまった。

 固まったまま動かない千尋に、勇樹達が追い付いた。


「お待たせ、千尋」

「ああ、うん」

「何組だった?」

「僕は五組」


 二人が顔をしかめたのを見て察した。


「オレと公弘は一緒だったから、千尋も一緒だと思ったのになぁ……」

「勇樹達は何組になったの?」

「二人共四組」


 千尋だけ離れる形になってしまった。肩を落としてため息をつくと、二人に肩を叩かれた。


「遊びに行くからさ」

「そうそう、隣のクラスだしな」

「なあ、さっきめちゃくちゃ可愛い子居なかった? たぶん千尋と同じクラス」


 公弘が頬を赤らめながら、千尋に真面目に問いかける。


「居たのか?」

「さあ」

「居たって!」

「探しとくよ、どんな子?」


 三人で一年のクラスが並ぶ四階へ上る。五組は階段を挟んでいるため、隣のクラスとはいえ、距離を感じた。

 二人と別れると、ほんの少し落ち込みそうになるのを、気合いで胸を開く。背を正す。


 ――まだ、始まったばっかりじゃないか。


 意を決して五組に乗り込むと、ざわめいている人々の中に公弘のお目当ての女子が居ないか見渡す。しかし、探し人より先に、先ほど玄関で見かけた背の高い男子に目が止まる。


 ――さっきの、でかいヤツ。


 机が窮屈なのか、足を投げ出すように座っていて、背もたれに凭れかかっている。全体的に髪は伸び放題のボサボサで、前髪は目を覆い隠している。そして、人目を気にせずにぐわりと大きく口を開けて欠伸をしている。

 その態度の悪さ、染めたのかと思わせる赤茶色の髪。

 千尋は関わりあってはいけない人種だと察して、自分の席が離れていることの安堵した。


 それが千尋の目から見た、獅子屋ししや 正親まさちかの第一印象だった。





 

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