始まりの黒板  2

「ねえ、次のコミケなんだけどさー」

「やばいよね!」

「ねー。お金いくらあっても足りないっすわー」

「ここ受けと攻めがさー」


 爽やかな気持ちで入学式を終えて数日、入部した美術部は千尋の思いがけない方向で和気藹々わきあいあいとしていた。

 十四人いるはずの部員は、掛け持ちであったり、週に一度は参加するという条件のために全員が揃うことはなかなかない。

 いつも居るのは、千尋と部長、二年三年の先輩が四人、そして一緒に入部してきた松下まつした つばめという千尋と同じクラスの男子が一人。

 活動している十人未満の第二美術室の中は、騒がしいグループと自身の作業をひたすら進めているグループに分かれている。

 後者の千尋が黙々とスケッチブックに向かっていると、前者である先輩たちの嬌声が上がって、筆がぴたりと止まった。

 人の趣味はそれぞれで、千尋もそれに関してとやかく言うつもりはない。ただ、その手の趣味の生々しい会話が漏れ出てくる度に、千尋は困惑してしまう。

 先日から手掛けているタンポポの絵の着色に取り掛かったところだったが、完全に気が逸れてしまった。横目で見ると、松下は集中しているのか教室の端で油絵に没頭している。

 千尋はスケッチブックを仕舞い、絵の具と道具を片すと、部長に早退する旨を伝えて美術室を後にした。


 現在美術部は、顧問が出産を控えていて休みを取っているため、創作活動はあまり活発ではない。

 授業は外部の先生が教壇に立って補い、部活のほうは代理として教頭先生が顧問をしているものの、忙しいのか専門外のせいかあまり顔を出さない。活動の一切は部長が仕切っていた。

 美術部の部長、小山こやま 由紀子ゆきこはとても穏やかな性格で、いつも静かに微笑んでいる。大和撫子という言葉がぴったりだと千尋は思っていた。

 けれど同時にその穏やかな性格は、あまり人を纏め上げるには向いていないように見えた。

 元々、千尋の望んだようなコンクールや展示会に応募したり参加したりなど、熱心な活動は行っていないのだし、いっそ辞めてしまおうかという考えが過る。

 帰ろうと思い玄関まで来た千尋は、ふと入学式に見上げた絵画に目を留めた。


 ――なに、やってるんだろうなぁ。


 入学当初あれだけ強く決心したはずが、ちょっとした躓きで諦めたくなってしまう。

 絵は美術部にいなくても描けるだけに、我慢してまで部活をしようと思えないのかもしれない。


 千尋にとって、絵を描きたいと思ったきっかけは、入院していたときに出会ったおばあちゃんだった。

 高熱を出して入院を余儀なくされた千尋は、入院二日目になって熱が下がってくると、病院の中庭へと赴いた。

 そこは開けていて、真昼の真っ直ぐな日差しが降り注いでくる。確か今と同じように、桜が散って、少しずつ初夏に移り変わる頃だった。

 点滴の針がうまく刺さらなくて、千尋の細くて白い腕には内出血の痕が三つも出来ていた。呆然とその痕を見つめながら、学校へ思いを馳せていると、後ろから声がした。


「ここでいいかしら」


 看護師に車椅子を押されながら、おばあちゃんは楽しげに笑った。


「ありがとう」

「お夕飯の前には戻ってくださいね」

「はいはい」


 小学校低学年だった自分が見ても、小柄なおばあちゃんだった。膝の上にはA4サイズのスケッチブックと十二色の色鉛筆。

 興味が湧いて、千尋はおばあちゃんに近付いた。


「こんにちは」


 とても暖かい陽気だった。日射しがおばあちゃんと千尋を優しく照らす。


「こんにちは」


 千尋がそう返すと、おばあちゃんはニコニコしていた表情からさらにニコニコとした表情になった。深い目尻の皺が、すごく優しげだった。


「おばちゃんね、絵を描くのが好きなのよ」


 見せてくれたスケッチブックには、季節の花から風景画、人物も描かれている。


「ここの中庭もけっこうお花があるでしょう? だから、入院している間にいっぱい描いてやろうって思ってね」

「入院、長いの?」

「そうねぇ、もうすぐ一ヶ月になるわね」

「僕は昨日入院してきたんだ」

「そうなの。……おばちゃんと一緒に絵を描く?」


 スケッチブックから切り取ってもらった一枚の紙と、貸してもらった色鉛筆で、へたくそなパンジーを描き上げた。

 おばあちゃんはそれを「上手い」「天才」と褒めてくれて、千尋は絵を描くことが好きになった。


「絵はね、誰にだって描けるのよ。どこにいても描けるし、言葉が違っても伝えることができるの。上手い下手はそんなに大事なことじゃないわ」


 それから、千尋が先に退院して、お見舞いに来たときにはおばあちゃんも退院してしまっていた。


 西に傾いてきた日差しが、玄関を明るく染めていく。

 もう一度、明日からちゃんと絵を描こう。

 随分と時間を潰していたことに気付くと同時に、千尋は思い出を辿りながらもう一つ忘れていたことを思い出した。


「やっば、親に渡すプリント忘れた」


 教室の机の中だろう。明後日提出してほしいということだったが、書いてもらうことがあるのに、提出日ギリギリに渡せば小言を食らうに違いない。

 慌てて踵を返して、早歩きで教室に向かう。四階まで上がるのは結構ハードで、千尋はペースダウンしながら階段を上っていくと、反対から獅子屋が下ってきた。


 ――あいつも忘れ物かな。クラスメイトだし、挨拶くらいはした方がいいのかな。


 大きな背に声をかけようか、ためらっている内に獅子屋はどんどん行ってしまった。


 ――まあ、いいか。向こうも気にしてないみたいだし。


 階段をあがって左手すぐの五組に入ると、日直が黒板を消し忘れているのに気付いた。


「……しょうがねーなー」


 とりあえず目的のプリントをカバンに突っ込み、千尋は黒板消しを手に取った。




 

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