始まりの黒板 5


 日曜日。一部の運動部が活動してるだけの、静かな学校の正門前で、千尋は幸を待っていた。

 南向きで道路に面している正門前は、先ほどから地域の住民が通りすぎていく。

 千尋の他にもここを待ち合わせ場所にしていた人も居たが、待ち人がすぐに現れて行ってしまった。

 こうして一人待ってると、もう幸は来ないような気がして、そのまま帰りたくなってくる。

 幸が来たら来たで、公弘に目くじら立てられそうで怖い。

 千尋が腕時計を確認すると、バタバタと荒々しい足音を立てて、幸が視界へと駆け込んできた。


「遅くなってごめん!」


 余程急いだのだろう。いつもさらさらの黒髪が、あちこち跳び跳ねている。


「大丈夫だよ。獅子屋の家に着く予定の時刻にはまだ早いし」


 千尋は幸の分け目が乱れた前髪をそっと直すと、「行こっか」と微笑んだ。


「そういうとこ、王子様っぽいんだよねぇ……」


 二歩ほど前に居た千尋は聞き取れずに振り返ると、幸は「なんでもない!」と赤くなった頬を押さえた。


 獅子屋が教えた住所をスマホのナビに反映させて、二人は初めて訪れる住宅街を歩いた。


「そっか、羽鳥くん朝陽小だったんだね。わたしは里木さとき小だよ。獅子屋くんはこの辺りなら山名やまな小かなぁ」


 三つの小学校の学区の重なるところに、東南中学校がある。幸の話を聞いていると、千尋、獅子屋、幸の家は、比較的中学の近くで、お互いの家も歩いて行けるほどの近さにあるらしい。


「小学校のときは学区のはじっこだったから、登下校はちょっと大変だったかも。中学は近くてよかったよ」


 千尋も学区の端のほうだったため、幸の気持ちはよくわかる。登校は、学校が好きだったから苦ではなかったけれど、体調を崩しているときの下校は辛かった。

 スマホに視線を落とすと、ナビの矢印が止まっていた。


「八乙女さん、着いたっぽい」

「ここ? 獅子屋書道教室……獅子屋くんのお家、書道の教室してるんだね」

「……それで上手いのか」


 広い庭に、二つ建物がある。手前の平屋の和風な建物の入り口には、書道教室と柔らかさを感じる文字で看板が掲げられている。

 獅子屋は奥の三階建ての家に住んでいるのだろうか。壁がレンガで、家というより小さなお城といった佇まいだ。


「千尋、八乙女」


 ――だれ?


 モデルのように背も手足も長くて、立っているだけなのに華がある。

 顔もとんでもなく美形だ。特徴的なのは、綺麗なアーモンド型の猫目。

 コーム付きのカチューシャでがっつり上げられた前髪は、陽を浴びて金色に輝いている。服装が真っ黒なジャージであることを除けば、文句の付け所がない。

 一瞬三者の間に沈黙が落ちて、幸が思い当たったのか両手を叩いた。


「獅子屋くん!」

「なんだよ 」

「嘘だろ!?」


 単純に考えれば、誘われて獅子屋の家にいるのだから、本人が出て来て当然なのだが、あまりに普段の容姿からかけ離れているせいで、獅子屋と認められないでいる。


「獅子屋くんイケメンだったんだね。前髪で隠すのもったいない」

「見た目なんてどうでもいいだろ。それより来いよ」

「……その上からの口調は間違いなく獅子屋だわ」


 獅子屋の後を、千尋と幸が続く。獅子屋は三階建ての家の方ではなく、平屋の書道教室へと入っていく。脱ぎ散らかした獅子屋と反対に、千尋と幸はお邪魔しますと声を掛けてから、靴を揃えて上がった。


「今日、丁度教室が休みでさ」


 獅子屋が襖をがらりと開ける。三十畳ありそうな大きな部屋だ。

 部屋の隅に、肩身が狭そうに折り畳みの机が追いやられている。畳みの上にはブルーのレジャーシートが敷かれ、その上に模造紙二枚分くらいの大きさの紙が敷かれている。よく見ると、半紙と同じ材質の紙だ。

 紙の脇にはバケツと、モップのように大きな筆。

 その光景は、書道パフォーマンス甲子園の動画を彷彿とさせる。獅子屋は筆を手に取ると、バケツに勢いよく突っ込んだ。

 そしてぼたぼたと垂れる墨に気をとられることなく、まるで刀を振り上げるように筆を上げると、紙に音を立てて叩き付けた。

 そして、ずるりずるりと引きずるような音を立てながら、体全体を動かして筆を運ぶ。

 部屋中に、墨の独特なつんとした香りが広がる。

 千尋も幸も、部屋の片隅でその様子を固唾を飲んで見守っていた。

 獅子屋の見たことのない険しい表情が、張り詰めた空気が、千尋の胸を強く揺さぶり、筆が動くたびに鼓動が高鳴る。

 獅子屋が最後の払いをすると、千尋たちに向かって微笑んだ。

 その表情で、どんな字が書けたのか想像できる。


「『夢』かぁ」


 書き終わるなり、近くに行って書を覗き込んだ幸が、砂の中から宝石でも見つけたようにうっとりと声を漏らす。

 千尋も幸の横に立って、文字を見下ろした。

 そこには『夢』の字が、前回のような綺麗さのカケラは全くないが、今にも動き出しそうなほど力強く描かれていた。

 その字は千尋に、青空の向こうの広大な宇宙を連想させた。

 目から鱗が取れたように、千尋の視界は一気に広がっていく。


「……僕、帰る」

「え、羽鳥くん」


 獅子屋は出て行く千尋から感じ取ったのだろう。引き止める言葉はなかった。



 ああ、やっぱり獅子屋は近付くべき人間ではなかった。

 そして、獅子屋の家に行くべきではなかった。

 突き放すタイミングはいくらでもあったのに、それをしなかったのは、やるかやらないかでバランスを保っていたはずの天秤がすでに傾いてしまっていたからだ。


 ――書道パフォーマンスをしてみたいと思ったからだ。



「獅子屋、書道パフォーマンス、やってもいいよ」



 月曜日。千尋は登校するなり、仰け反るように座っていた獅子屋の胸倉を掴むと、千尋は少しだけ悔しそうに、宣言してやった。






つづく。










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