始まりの黒板 4
「興味が湧かないか」
獅子屋の声で、千尋は熱心に動画に見入っていたことに気付く。
鮮やかな色彩。観客を引き込む演技。
そして、力強く書かれたメッセージ。
……興味がわかないはずがなかった。
「いや、でも僕、書道とかしたことないんで」
千尋は社交辞令用の笑顔で、獅子屋の横から逃げ出そうとしたが、腕を掴まれて引き留められた。
「……この『夢』って字、オレが書いたんだ」
無骨そうに見えて、意外とお手本のような繊細な字を書くんだな、と感心していると、獅子屋は千尋の腕を開放した。けれど、その先の獅子屋の言葉が気になって、この場を離れ難くなる。
「この字を見て書の先生は、書道は芸術なんだ。お前は遊び心が足りないって言った」
遊び心、か。確かに綺麗な字だが、一度行った書道展で見たような、わざと崩したり、紙から出てきそうなダイナミックな表現はない。
とはいえ、普段の獅子屋を見ていると、生真面目で面白味がないと言い難い。
授業中だというのに頻繁に大きな欠伸をするし、寝起きかよってくらいぼっさぼさの髪のまま登校してくるし、常に長い足を放り出すかのような座り方なので、先生から注意を受けている。
そのだらしなさがそのまま表現できたら、それはそれで個性的な表現になるのではないだろうか。
「それが、なんで書道パフォーマンスに繋がるんだ? 素晴らしいとは思うけど、書道パフォーマンスをしたからって獅子屋自身の表現の幅が広がるとは思わない」
「……」
言い澱む獅子屋の表情は、長い前髪に遮られて読みにくい。
千尋は再び黒板を綺麗にすると、獅子屋に『夢』と書かれた半紙を返した。
遠くからふるさとのメロディーが聞こえてきて、五時になったことを悟る。
「じゃあ、僕は帰るけど」
「……羽鳥っ」
その切羽詰まった声に、千尋の足が貼り付けられたように止まる。
「オレ、書道辞めようと思ってた。書道パフォーマンスも、出来るわけないって諦めてた。だからこの書を捨てた。
でも、お前の絵となら、もう一回書いてみたいと思ったんだ」
美術部から逃げ出してきた千尋に、今獅子屋が抱いている感情は痛いほどよくわかる気がした。
諦めて、好きなものから背を向ける空しさは、失恋にも似ていると思う。
獅子屋がどんな表情で『夢』という書を捨てたのか、簡単に想像がついてしまう。
それでも、軽はずみには頷けない。獅子屋が本気だからこそ、余計に。
「……ごめん。他当たって」
今度は立ち止まらずに、千尋は背中に重いものを感じながら家路を急いだ。
「羽鳥、数学の宿題やったか?」
「なあ、羽鳥。オススメのアプリない?」
「羽鳥って嫌いな食い物ある?」
「やっぱ絵が上手いな」
「千尋はどんな女がタイプなんだ?」
「千尋、次理科室だよな。一緒に行こうぜ」
あの放課後から一週間。獅子屋は千尋にしつこいほど付き纏っている。
放課後に美術部にまでくっついてくるものから、色めき立った先輩達に噂されて、とても過ごし難かった。
それから、いつの間にか獅子屋は千尋を名字から名前で呼ぶようになった。そこまで心許したつもりのない千尋は、急に距離を詰めてきた獅子屋に苛立つ。
それでも千尋は、獅子屋に対して強く拒むことはなかった。
獅子屋の見せたあの動画を、有名な動画サイトで探して、書道パフォーマンスについてほんの少しだけ調べたのだ。
……ほんの、少しだけ。
動画は通称書道パフォーマンス甲子園と呼ばれる大会の映像で、書の美しさに独創性やストーリー性なども加味して採点される。最初は数校だけで行われた大会だったが、現在は百校近く参加しているという。
「なあ、千尋」
一番前に座っている千尋を、教壇から獅子屋が覗き込む。
「……なんだよ」
「日曜にオレん
「なんでだよ」
獅子屋の誘いを一蹴することに千尋も慣れてきて、漫才でもしているかのように、二人のリズムが出来ていた。
「ふふ」
二人の掛け合いの合間から、鈴を転がしたような笑い声が聞こえてくる。
「仲良しだね」
振り向くと八乙女 幸が口許を隠して、品良く笑っていた。
さらさらの黒髪に白い肌。大きな黒目とそれを縁取る長い睫毛。頬と唇の血色が良くて、化粧をしていないはずなのに艶やかさがある。
そのくせ、性格はとびっきり明るい。公弘や周りの男子が惚れるのもわかる気がする。
「そう見える?」
千尋が返すと、幸は力強く肯いた。
「うん。それに羽鳥くんって、そういう普通の男の子みたいな表情とかするんだね」
――え、僕のこと?
いつも一人で居た獅子屋に対して意外性を感じたというならまだしも、と千尋が怪訝な表情をしていると、幸は千尋が不機嫌になったと捉えたのか慌てて両手を振って否定した。
「羽鳥くんって、王子様みたいだよねって女子の間で噂になっててね。いつも物腰穏やかだし、どことなくフクシくんに似てるし」
フクシくんとは今活躍している若手のイケメン俳優だ。
「あー……似てるかもな」
「だよね! 獅子屋くんもそう思うよね!」
初めて誰かに似ていると言われて――しかもその上イケメンで――嬉しいやら恥ずかしいやらで戸惑っている千尋を余所に、二人で何やら盛り上がっている。
「面白そう! 日曜日、獅子屋くんのお家にわたしも行っていい?」
「おお、来いよ」
「え、あのさ、ちょっと」
――僕、行くなんて一言も言ってないんですけど!
千尋の心の叫びは誰にも届かず、約束が結ばれた。
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