始まりの黒板  3

 日付と日直の名前を消して、横に移動しながら黒板に書かれた文字を消していく。

 目線の高さから順調に消していって、最後に一番上に残ってしまったSachiの文字を背伸びして消す。

 今日の最後の授業が英語で、先生はクラスメイトの名前を入れながら例文を作っていた。

 八乙女やおとめ さちは、学年一の美少女と専ら噂で、公弘が入学式のときに騒いでいたお目当ての女子だ。

 今でも、公弘が千尋に話しかけにくるときに、彼女を目で追っているのを知っている。……全く、友人をダシにしやがって。

 千尋は精一杯背伸びしたものの、上のほうに少し消し残しがある。


 ――っていうか、獅子屋。教室から出てきたんなら気付かなかったのかよ。


 確か一七〇センチあると耳にした。それだけ背が高いなら、千尋のように背伸びせずに余裕で消せるだろうに。

 ムカついた千尋は飛び跳ねて、一拭きで残りを消しきった。しかし、着地したその足がうまくバランスをとれずによろめく。


「うぉっと……っと」


 幸い転ばずに済んだけれど、内心焦りでドキドキした。あと数センチよろめいたらゴミ箱にぶつかっていたところだった。

 中のゴミは掃除の際にあらかた捨てられているだろうが、それでも放課後までにまたゴミは出る。撒き散らして、惨めに拾い直すのだけは御免だ。

 ふと、そんなゴミ箱の中に墨で『夢』と書かれた半紙が、そのまま広げて捨ててあるのを見つけた。


 ――もったいないな。すげぇ綺麗な字なのに。


 今、千尋はおばあちゃんとの思い出によって、やる気で満たされていた。明日からまた美術部に戻って、絵を描きまくろうなんて決意したばかりだ。

 半紙を拾い上げる。


「『夢』とか、一番捨てちゃダメなやつだろ」


 黒板の端に貼り付いていた磁石を持ってきて、黒板の中心に『夢』の字を貼り付ける。

 教壇から降りて眺めると、お手本のように整った『夢』の字は、やはり綺麗だと見入った。

 しかし、誰が捨てたのだろうか。今日は書道を含め、選択授業がないため、誰かが教室に持ってきたことになる。おまけに五組には書道部の生徒がいないはずだ。

 考えれば考えるほど、謎は深まっていく。

 こうして貼っていても、自分の物だと名乗り上げないかもしれない。仮に受け取ったとしても、持ち主はこの『夢』の字をまた捨てるかも。

 ……捨てるくらいなら、いいだろうか。

 千尋はこの字をゴミ箱から拾い上げたときから、うずうずしていた。


 ――描きたい。


 黒板に歩み寄って、チョークを手にすると半紙の外、左上に翼を広げて飛んでいる鳥を描いていく。一羽だけではなく、二羽、三羽。そして、右下には穏やかな水面を描き、自由に泳ぐ二匹の魚をそこに描き足していく。

 千尋は夢中になっていた。鳥の羽の一本、魚の鱗の一枚。生きているかのように、動き出すかのように見せたくて、黒板に齧りつくようにして描く。

 『夢』という字から湧き出すインスピレーションに突き動かされるように、千尋はチョークを動かしていく。


 ――絵はね、誰にだって描けるのよ。どこにいても描けるし、言葉が違っても伝えることができるの。上手い下手はそんなに大事なことじゃないわ。


 あのおばあちゃんも、こんな風に夢中になって描いていたことがあるのだろうか。

 半紙の周りは、千尋の描く生き物で埋め尽くされていく。


「――おい」


 振り返ると、教室の後ろの出入口に獅子屋が立っていた。獅子屋の長い前髪の奥に隠された目が、千尋を真っ直ぐ見つめいて、爪先まで探り合うような、互いの視線が激しくぶつかり合う。


「……なんだよ」


 千尋が切り出すと、獅子屋はゆらりと体を揺らしながら、千尋に向かって歩いてきた。

 その一歩一歩が重く感じる。


 ――これって、ひょっとして、殴られちゃったり、する?


 体格のいい獅子屋に殴られたら、喧嘩などしたこともない千尋など一溜まりも無いだろう。

 けれど、逃げるという選択肢を選べなかった。悪いことをした覚えがないうえに、千尋も男としてのプライドがある。なけなしの、ではあるが。

 眼前に立たれると、改めて感じる身長差に、奥底に封じ込めたつもりの逃げ出したい衝動が強くなってくる。

 やはり、初めの直感は正しかった。こいつはきっと関わらないほうがいい男だ。

 どうしよう、と思っていた矢先に、両肩をがっしりと力強く掴まれて、千尋の意識は遠のいた。

 逃げるが勝ち、という言葉が頭に浮かんでくるものの、もう逃げられない現状に涙が出てくる。つまらないプライドに拘っているとろくなことにならないのだと悟った。



「オレと、書道パフォーマンスやらないか」



 ――はあ?


 千尋は今まで生きてきた中で、一度も出したことのない素っ頓狂な声が、自分の口から出てきていたことに驚いた。


「あー……えっと、その、書道パフォーマンス……ってなに」


 千尋を覗き込むようにしていた獅子屋が、一歩下がって距離を空けると、ポケットからスマホを取り出した。大きめのスマホなのに軽々と右手のみで操作して、千尋の前にずいっと画面を向ける。

 体育館のような会場だろうか。中心に映っている人達よりも、すこし上からの俯瞰視線になっている。聞き覚えのある曲が流れ出して、画面の中で十数人がそれぞれに動き出した。床に敷かれるように広げられた大きな紙に、授業では見たことのない大きい筆で、音楽に合わせて文字が書かれていく。

 ひとつひとつの動きがシンクロしていて、それだけでもショーを見ているようだ。


 ――あれ? でも、こいつ書道って言ったよな?


 千尋の思い描いている書道とは、一人が一枚の紙に、綺麗な姿勢で真摯に向き合って、文字を丁寧に書いていくものだ。

 獅子屋に突きつけられたスマホには、千尋の想像している書道の姿はない。

 アグレッシブに動き、時折観客に訴えかけてその場の空気を盛り上げていく。

 やがて、完成したのだろうか。大きな紙が、ゆっくりと持ち上げられて、作品の全容が明らかになる。

 BGMに使われていた曲の歌詞と、青春についての思いが紙いっぱいに書き込まれていた。そして、なにより千尋の目を引いたのは、そこに墨で描かれていた鳥の絵だった。








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