朝虹は雨 夕虹は晴れ 5
部活の時間になっても、千尋はどこか夢現だった。
先程の教室での話し合い。正直、上手く纏まるなどとは思っていなかっただけに、誰からも否定的な意見が出なかったことに驚いた。
筆の先に力が伝わって、文字がぐにゃりと歪む。
そわそわしているのは獅子屋も同じらしく、“払い”が勢い余ってはがきサイズの画用紙からはみ出していた。
「おまえら、やる気あるのか?」
その様子を逆瀬に見つかって、二人で謝った。
部活が終わって、昨日のように書道部の面々と下駄箱前で解散して、玄関の前で立ち止まった。
昨日、松下に貸した傘は未だ返っていない。今朝も折り畳み傘で登校してきた。
今日もよく降っているなぁと、背負っていた学生カバンを下ろして、中を探る。
――あれ?
指先の神経を集中して探すものの、傘の撥水加工された布地独特の感触はない。
「どうしたんだ?」
カバンの中をがさごそと探している千尋を、獅子屋が上から覗き込んだ。
「傘が見当たらなくてさ」
「入れてってやろうか!」
「でも、お前逆方向じゃないか」
「いいってことよー」
妙に棒読みな獅子屋に、千尋は眉根を寄せた。
――何を企んでいるんだ?
「お、そこに居るのは八乙女じゃないかー」
「あ、あれー? 奇遇だねー?」
さらに幸も加わって、怪しさは増すばかりだ。
「わ、わたしも傘忘れちゃって!」
「そうか! それなら、一緒に帰るか!」
「え? は?」
――三人でどうやって?
千尋が思考を整理するより早く、獅子屋に強引に引きずられて雨の中へ飛び出した。
獅子屋の傘は大人物の中でも大きいほうだが、三人はさすがに入れない。
一番背の高い獅子屋が真ん中で傘を持って、千尋と幸が濡れないようにと獅子屋に張り付くようにして歩く。
「せっま!」
「羽鳥くん濡れてないー?」
「大丈夫。八乙女さんは?」
「だいじょーぶ」
「俺には聞かないのか」
三人で、互いに濡れないようにペースを合わせて歩く。まるで二人三脚を三人でしているようだ。
「とりあえず、八乙女さんから帰らないと」
「わたしは大丈夫だから、羽鳥くんから」
同じ会話を二人で延々繰り返していると、キリがないと思ったのか、獅子屋が口を開いた。
「じゃあ、間を取って千尋から」
「間っていうか、間にいるだけだろ!」
結局、二人の意見に押し切られて、千尋が先に帰ることになった。
なぜだろう。いつもと同じ帰り道なのに、一つ一つが違って見える。
水溜まりも、アスファルトで弾けて裾を濡らす雨滴も、今朝まで疎ましく思っていたけれど、今は鮮やかで千尋の心を踊らせる。
千尋の家が見えてきたところで、わずかに空が明るくなってきた。雨が細かくなっていく。
このまま上がるかな、と傘から顔を覗かせて空を見上げようとしていると、猫のようなしなやかな動きで、幸が傘から踊り出た。
幸は霧雨の中を駆けていき、くるりと振り向いた。
「八乙女さんっ」
濡れてしまうことを懸念している千尋の意を知ってか知らずか、幸は楽しそうに雨の中をはしゃいだ。
「見て、虹!」
幸が指し示した先に、薄らではあるけれど、虹が架かっていた。
その光景に思わず息を呑んでいると、隣に居る獅子屋も虹を見上げて固まっていた。
「すげぇな」
「……うん」
虹もさることながら雨が夕陽の温かな光を含んで、キラキラと輝いている。
その中で幸が、舞うように雨を楽しんでいて……。
――書きたいなぁ。
今感じていることを形にしたい。
「あのね、羽鳥くん」
幸が千尋に向かって掬うように丸めた両手を差し出してきた。
「羽鳥くんって、獅子屋くんと書道パフォーマンスしてるんだよね。それでね、ずっと何か応援できないかなって思っていたんだ。
……よかったら、受け取ってくれませんか?」
幸の手から受け取ったのは、角ばった白っぽい石のハンコだった。
「獅子屋くんに、書道では
千尋のは『千』、獅子屋のは『正』と彫られている。
「彫ったことないから、簡単な文字でごめんね」
千尋からの反応が薄いのを気にしてか、幸は間を開けずに話す。
「……謝ることないよ。すごい嬉しい。大事にする」
幸のくれた
なんて、小さなことを気にしていたのだろう。
あの雨の中で、獅子屋と幸は千尋へのサプライズを話し合っていたのだろうか。
こんなに素敵なものをもらえるなんて、思ってもみなかった。
千尋は、自分の中にあった小さな嫉妬を恥じた。
「そういうわけで、これは返す」
獅子屋がサブバッグから取り出したのは、千尋の折り畳み傘だった。
「これで嫉妬も納まるだろ」
してやったり顔の獅子屋にほんのすこし苛立ちもあったけれど、幸福感がそれを上回った。
「明日は晴れるね」
「え?」
「夕方の虹は、晴れるんだよ」
満面の笑みで、幸はそう言った。
夜になって、ベッドに潜っても、幸の言葉が耳に残って離れなかった。
――夕方の虹は、晴れるんだよ。
以前も誰かに聞いたような……。
記憶を辿っても思い出せなくて、疲れきった千尋は沈むようにして夢の中に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます