朝虹は雨 夕虹は晴れ 3
「じゃあ、ちょっと時間が少なくなっちゃったけど、二人には新しいことをしてもらおうかな」
品川は獅子屋と千尋の前にはがきサイズの紙を差し出した。
「この紙は画仙紙って言います。これは絵葉書とかに使われるやつね」
触ってみると半紙のように薄くなく、画用紙ともまた違い、少し荒い。
「書って一言で言っても様々なのよ。だからね、いろんな書き方を試して貰いたいと思います」
品川は『笑』と書かれた画仙紙を三枚差し出した。
見慣れた『笑』、ふにゃりとした『笑』、さらに形の崩れて一目だとわからない『笑』。
書かれている字は同じだけれど、表現が違うせいで違う印象を受ける。
「獅子屋くんは知ってると思うけど、それぞれ楷書、行書、草書という書き方で書いているの。他にも書き方はあるけれど、とりあえずこの三つね」
「獅子屋が前に書いた、『道』と同じ感じですね」
「そう。それでね、この『笑』っていう字を表現するときに、どれが一番合っているかなって書き方を選ぶのも書の中で大事なことなの」
獅子屋は机に肘をついて頬杖をすると、品川の書をじぃっと見下ろした。
「わたしも書道パフォーマンスを指導したことはないから、手探りになると思う。だから、獅子屋くんと羽鳥くんの意見があったらどんどん言ってね」
品川の言葉に、二人は頷いた。
道具を支度し、すぐに品川の字を手本にして真似て書く。
何事もその人の使っている道具を見ていると、いかに本気で取り組んでいるかが窺えるが、獅子屋の道具はけっこう年季が入っていて、長く大事に使ってきたことがわかる。
獅子屋の道具を見ていて、千尋は今は書道部のものを貸し出してもらっているが、いずれは揃えていきたいと思った。
基本的なことを教わったおかげか、以前より筆先が思うように動いて自由を感じる。
千尋は三枚の『笑』を見比べながら、この字でパフォーマンスをするなら、と想像を膨らませた。
「そう言えば、獅子屋はどこまで書けるんだ?」
「うちの書道教室で教わってたのは楷書。行書はちょっとかじった……けどな」
珍しく歯切れが悪い獅子屋に疑問を抱いていると、チャイムが鳴ってしまった。
席替えで時間を押していたこともあって、いつにもましてあっという間だ。
「明日は美術部か?」
「んー……明日は書道部に来るよ。やっと“とめ“ “はね”から進めたし」
「そうか」
歯を見せて笑う獅子屋はいつも通りに見えた。
片付けを終えて、書道部員で連れ立って生徒用玄関に赴くと、部活を終えた生徒達でごった返していた。
「じゃあまた明日」
「お疲れさまでしたぁ」
「お疲れ様です」
書道部の面々に挨拶をすると、千尋と獅子屋は一年の下駄箱に向かった。
小柄な千尋は人の合間を抜けて、さっさと靴を履き替えた。邪魔にならないように、そっとその場を抜けると、見知った背中を見つけた。
「あれ、松下?」
松下は軒下から雨の落ちてくる空を見上げていた。
「美術部も今終わったのか?」
千尋がそう声をかけると、やっと「ああ」と返事があった。視線は空から離れない。
空になにかあるのだろうか、と思って視線を追ったけれど、雨が落ちてくるばかりでなにもない。
そこで視線を落とすと、松下の手に傘がないことに気付いた。
「松下、傘は?」
「……誰か間違って持っていったみたいだ」
残っている傘を持っていかない辺り、彼は真面目だ。
とはいえ、いくら家が近かったとしても、走って帰るとは言いにくいほど雨はよく降っている。
「……傘、貸そうか。僕、折り畳みも持ってるからさ」
松下は目を丸くした後、ゆっくり肯いた。千尋は傘を松下に差し出すと、背負っていた学生カバンを下ろして折り畳み傘を取り出した。
「羽鳥、折り畳みのほうでいいよ」
「遠慮しなくていいよ。この傘そんなに大きくないし、松下より僕のほうが濡れないで済むと思う」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
千尋の紺色の傘を差して、松下が去っていくと、入れ替わりに獅子屋が出てきた。
「千尋、傘は?」
「貸した。それより帰ろう」
雨脚がどんどん強くなっている気がする。アスファルトは雨を湛えて辺りを反射し、まるで川のようになっている。
校門で立っている先生達に挨拶をして、大通りまでの道を獅子屋と並んで歩いた。そこから先は二人は真逆の方へ帰ることになるため、一緒に居られるのはそこまでだ。
頭一つ分高い獅子屋が隣に居ると、心なしか雨を避けれているようだ。下校する生徒の間で、二人はゆるゆると進む。
「美術部のほうはどうなんだ?」
「楽しいよ。昨日は松下をモデルにしてみんなで描いて――」
ふと、昨日のことが過ぎって、千尋は獅子屋を見上げた。
「……昨日の放課後、玄関で八乙女さんとなに話してたんだ?」
獅子屋が珍しくあんぐりと口を開けた。鬱陶しい前髪の下で、目が丸くなっているかもしれない。
「もしかして、今朝聞こうとしてきたのってそれか?」
獅子屋から図星を指摘されて、千尋の顔が赤くなる。気恥ずかしくなって、下を向いて、傘で悟られないようにした。
「……千尋って、意外と気にしたりするんだな」
「なんだよそれ」
「人当たりがいいやつって、誰かと誰かの関係性とか興味持たないんだと思ってた。それこそ嫉妬とかしないんだろって」
「嫉妬なんかして、ねーよ」
そう言いつつも、今までこんな風に二人が話している内容を気にしていたことがあったろうか、と考えると、湧いてくる感情に疑問を覚える。
――僕は嫉妬してたのか?
考えても結論が出なくて、押し黙ってる千尋に獅子屋は笑い声を上げた。
「……なにがおかしいんだよ」
「いや、なんでもねーよ。じゃあな」
獅子屋の大きい背中を見つめながら溜息を一つ落とすと、千尋も背を向けて帰ることにした。
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