天の青さ 日の白さ

天の青さ 日の白さ 1


「おはよう」


 少し緊張した面持ちで、千尋は隣の席に座っている八乙女 幸に声をかけた。

 朝のざわめく教室。色んな話し声が飛び交っている。


「おはよう」


 その中で、千尋の声を聞き分けた幸が、朝から爽やかな笑顔で返してくれた。

 席に着いて、支度をしながら、幸の様子を窺う。

 先日、千尋ははがきサイズの画仙紙に、『雨』という作品を書いた。

 一人で作った作品であり、幸に貰った落款印を初めて押させてもらった作品でもある。

 その思い出の作品を、幸に渡したいと思って、バッグに忍ばせていたものの、取り出して渡す勇気が出なかった。


「……おはよう」


 今日もバッグに忍ばせたまま、千尋は振り向いて獅子屋に声をかけた。


「おーはよー」 


 相変わらず大きな欠伸をしながら、獅子屋は仰け反った。暢気だなぁと千尋はその姿を見て、飼い猫のミケを思い出した。猫に例えるよりも、図体がでかいからやはり檻の中のライオンだろうか。

 朝のチャイムぎりぎりになってくると、大きなスポーツバッグを提げた生徒が教室に入ってくる。


「運動部、気合入ってるね」

「もうすぐ大会なんだっけ。八乙女さんも応援とか行くの?」


 幸は吹奏楽部に所属している。たしか、フルートの専攻をしていると話していた。

 清楚な彼女がフルートを吹く様は、きっと絵になるだろうと思う。


「吹奏楽部は応援には行かないみたい。いつか球場とかで吹いてみたいけど」


 いたずらっこのようにはにかんで、幸は教室に入ってくる松下 燕に視線を向けた。


「おはよう」

「おはよう。……羽鳥、これ小山部長が」


 いつも千尋より早く来ている松下が遅かったのは、美術部部長の小山に呼び出されていたかららしい。渡されたプリントには、夏休みに美術館の一角で、市内の中高生の作品を展示する催しがある旨が書かれていた。


「強制ではないらしいけど……出すだろ?」


 松下は眼鏡をブリッジを押すようにして上げた。


「もちろん」


 千尋は力強く肯いた。

 期待に胸を弾ませていると、「なあ、獅子屋」とわざと周囲に聞こえるような大声で誰かが獅子屋に声をかけてきた。振り向かなくても、誰だか察しはつくものの、後ろの様子を窺う。

 そこには、やはり赤井が居た。

 荒れに荒れた席替えをなんとか無事に丸く治めたと思ったのだが、残念なことに不満やわだかまりを完全に払拭できてはいなかった。

 幸と同じグループがいいという声は後を絶たないし、あの場で積極的に意見をした千尋のことをよく思っていない人物は少なからずいる。

 赤井はその中でも嫌悪感の現し方が顕著なので、千尋も距離を置いて接するようになってしまった。

 例えば、千尋の失敗をあげつらって仲間内で笑ったり、着替えている千尋に「ほっそ」と声をかけたり。いじめとまではいかないにしても、不快だ。

 人と接するのは好きだが、明らかに敵意を持っている人物とコミュニケーションを取れるほど、千尋も寛大にはなれなかった。

 今は特に言い返すことはせず、いずれ気が済むだろうと放置している。


「お前さ、サッカー部入れよ。書道なんかよりぜってー向いてるからさ」


 赤井のその一言に、さすがに振り向いて物申そうと思ったが、振り向いた先に獅子屋の険しい表情があって、千尋は口を噤んだ。


「お前に書道の何がわかる」


 最初は千尋に対しての嫌がらせのつもりだったのだろう。しかし、思いも寄らない獅子屋の反発に、鼻白んだ赤井はすごすごと自分の席へと行ってしまった。


「なんだ、アイツ」


 獅子屋は首を傾げている。


「獅子屋くん運動神経いいから、普通にお誘いしたかったんじゃないかな?」


 幸がそう言うと、張り詰めていた場がすこしだけ和んだ。

 運動能力の高い獅子屋を誘いに来たのは、なにも赤井だけではない。幸の発言が的外れとは言えないが、恐らく赤井は、千尋が獅子屋を書道部に誘ったのだと思っていたのだろう。

 だから、それほど熱心に書道部で活動していないであろう獅子屋を、運動能力を十分活かせるとサッカー部へ引き抜こうと考えた――という説が一番納得がいく。

 もちろんその背景にあるは、千尋への嫌がらせだ。

 けれど、赤井の考えは実際は逆だった。書道をしていた獅子屋に、千尋が誘われる形で書道部に足を踏み入れたのだ。

 獅子屋が一言で切り伏せてくれたお陰で、千尋も少し気が晴れた。

 ……とはいえ、自分達が目指しているものは、普通の書道ではない。パフォーマンス書道だ。

 赤井に「ほっそ」と言われて反論できないような、体力のない現状では、十分にパフォーマンスが出来ない可能性もある。


「獅子屋、僕、部活前に走ろうと思う」


 思い付いたままに振り返って言うと、獅子屋は「いいんじゃね、オレも走るよ」と笑った。


 そんなこんなで、走りこみを始めて二日目。

 校舎の外周を走ることになったのだが、千尋は三周も走ると限界だ。

 足を引きずるように走っていたけれど、ついに止まってしまった。頬から顎を伝って滑り落ちていく汗を、手の甲で拭う。

 まるで心臓が耳元にあるように鼓動が大きく聞こえて、膝ががくがくと震えている。

 幼い頃から体が弱かったとは言え、今まで体育をしてこなかったツケだ。

 これでは赤井にあれこれ言われても仕方がない気がする。

 少し休もうと校舎に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。

 壁の冷たさが心地よくて、少しだけ目を閉じた。

 日射しが瞼の裏を白く染める。

 六月ももう終わりを迎えようとしている。日射しは日に日に強くなっていくし、日が沈むのは遅くなった。

 今日は県内の中学生による体育大会が始まって二日目だ。今頃、公弘と勇樹も、きっと白球を追いかけているだろう。

 二人から一日目を勝ち進んだというメッセージがあった。

 運動部が出払っているのもあって、吹奏楽部の音が鮮明に耳に届いてくる。

 千尋にはどれがフルートの音色か判別はできないけれど、幸も今頃頑張っているのだと思うと、ここでへこたれている場合ではないと気合が入った。

 目を開けると夏の眩い日差しの中で、獅子屋が手を差し出してくれた。元々色素が薄めの獅子屋の髪は金色に輝いて見える。

 その手を借りて、よろけながらも立ち上がった。

 さすがに運動をするときは、いつもの鬱陶しい前髪を上げているため、獅子屋の表情はよく見える。疲れを一片も感じさせないどころか、風呂上りのようにすっきりした顔をしていた。


「獅子屋、何周走った?」

「十」

「うわぁ……。お前の体力が羨ましいよ」

「まあな、毎朝走ってるからな」

「は?」

「毎朝一キロ走ってから登校してる」


 それで誰より早く登校していた訳だ。


「お前、ほんと今から運動部入れば?」

「オレは掛け持ちはしない」


 そう断言してしまう獅子屋が、なんだか逞しく思えた。




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