思う念力 岩をも通す 5



 体育館までの十歩の間、二人は手を繋いだ。

 繋ごうとしたのは千尋からだったけれど、幸が緩く指を絡ませてきた。

 繋いだ手が揺れる度に、幸の細く柔らかな指が滑り落ちてしまいそうでだったけれど、強く繋いでいいものか迷って、そのまま体育館の前まで来てしまった。

 名残惜しいけれど、そっと手を離す。

 幸は自分の席へ戻る途中一度振り返って、口許に人差し指を宛がった。


 ――かわいい。


 思わず顔を押さえて、悶える千尋に先生から注意が入った。


「羽鳥、早く座れ」


 もう体育館の中は多くの生徒で埋まっていて、クラスメイトの視線が千尋に集中している。

 千尋は小さく頭を下げながら、獅子屋の隣に腰を下ろした。



 文化祭の閉会式が終わると、明日の運動会の説明があった。

 クラス毎に椅子を校庭へ運び出してから、そのまま解散という運びらしい。

 一年五組と書かれたテントの下へ椅子を運んで、千尋は待っていてくれた公弘、勇樹と一緒に、疲れて重たい体を引きずるようにして家に帰った。



 翌朝。カーテンを開けると、青空が出迎えてくれた。

 お風呂に入ると、余程疲れていたのか夕飯も食べずに眠ってしまっていたらしい。

 お陰で体はすっきりとしている。……お腹も。

 朝ごはんの催促に来たミケと階段を下りていくと、朝子がたっぷりの朝食を用意していた。

 八枚切りのトーストが二枚に、目玉焼きが二つ。サラダボウルには野菜が青々と輝いて、コーンスープの湯気が朝陽で光る。

 千尋の口内は唾液でいっぱいになって、お腹は今にも悲鳴を上げそうだ。


「おはよう。昨日見に行ったわよ。目立つところに飾って貰えてよかったわね」

「おはよう。うん、そうだね」


 良夫が千尋に「おはよう」と声をかけながら席に着くと、三人で「いただきます」と手を合わせた。


「千尋は運動会はなにに出るの?」

「一年のクラス対抗リレーと、大縄跳びかな。グループ対抗のとかは運動部が中心になってる」


 目玉焼きをトーストに乗せて、がぶりとかぶり付く。

 夜ご飯を抜いただけなのに、しばらく食事をしていなかったかのように美味しい。

 夢中になって頬張る千尋の、口の端に付いた黄身を朝子が指で拭った。


「いっぱい食べて、気をつけて頑張っておいで」

「うん!」



 一年の緑のジャージを着て学校へ行くと、すでに赤いジャージの二年生や青いジャージの三年生が慌ただしく走り回っていた。

 運動部ではない千尋はジャージで登校するのが初めてで、今日は学校指定のカバンではなくトートバッグと、集合場所は教室ではなく、直接各クラスのテント下だ。

 いつもと違う一日の始まりに、気分も高揚してくる。


「おはよう、羽鳥くん」

「おはよう」


 幸の淡く朱に染まる頬が、昨日のことが現実であったことを思い起こさせる。

 この胸のときめきが一人で感じているのではないと思えたら、少しだけ自信が湧いてくる。


「今日、頑張ろうね!」


 千尋が笑いかけると、幸も笑顔で肯いた。



 運動会は学年の分け方以外にも、シャッフルでグループが決まっていて、千尋の所属する一年五組はオレンジのグループになっている。

 他にも三年一組と、二年二組が同じオレンジのグループだ。

 小学校のときは紅白戦だったから、知っている人が先輩や後輩に多少なり居たものの、生憎オレンジグループには知っている先輩がいない。

 公弘と勇樹の所属する隣の四組の緑グループに、逆瀬がいて、屋古は赤。小山と生徒会長が白に所属している。

 こうしてライバルになると、負けたくないと闘志が燃えてくる。

 校庭の中心に並ぶと、開会式が始まった。

 グループ長の挨拶や、学ラン姿の応援委員からの熱い応援。

 中学初の運動会ということもあって、千尋は右に左にと目をやりながら、一つ一つのことを見逃さないように必死だ。

 小学生の時。特に低学年の時は、体が弱くて運動会が嫌いだった。公弘達と仲良くなって、楽しいと思えるようになった。

 今日の運動会は、きっと今まで以上に楽しめそうな気がする。

 千尋は一回り体の大きな先輩達を張り切っている背を見上げながら、そんな期待を胸に抱いた。



 開会式が終わり、最初の競技が一年のリレーだ。

 どこのクラスも集まって円陣を組んでいる。


「羽鳥」


 松下と赤井に挟まれて、千尋は円陣に加わった。


「全力で行くぞ!」


 声が重なる。男子も女子も、みんなで叫ぶ。

 千尋も精一杯大きな声を上げた。


「位置について……よーいっ」


 スターターピストルの弾ける音と共に、一斉に第一走者が駆け出した。

 半周はあっという間だ。第二走者、第三走者へとどんどんバトンが移っていく。

 大きな差はなく、みんな手を伸ばせば届く距離で走っている。

 幸が走って、櫛田が走って、松下、赤井へとバトンが移る。

 千尋は赤井の姿を目で追いながら、テイクオーバーゾーンをゆっくり駆け出す。

 隣のレーンで四組の走者がバトンを受け取り、走っていく。


「はい!」


 赤井の声を聞き、バトンを受け取ると、千尋は力一杯大地を蹴り上げた。

 駆ける。

 駆ける。

 体が、前へ、前へと突き動かされていく。

 走りながら、この光景にデジャヴを感じて、その理由を探す。

 そして思い当たって、千尋は笑った。


 ――そうだ、小学校のプールだ。


 勇樹から、公弘へと繋いだ、水泳でのリレー。

 今は、陸上で、二人とは別のレーンで、違うバトンを繋いでいる。


「羽鳥行け――!!」


 赤井の声が、たくさんの応援の声の中から突き抜けて、千尋の背を押す。

 すぐ前を走っていた四組の走者を追い抜き、千尋はバトンを強く握り直す。

 次の走者、広瀬の横に笑顔の勇樹が見えた。


 ――って、今は敵だって!


「はいっ!」


 広瀬の背を追っていって渡す。広瀬はバトンを掴むと、アクセルを踏み込んだように駆け出した。

 千尋は邪魔にならないようにトラックから抜け、楕円形の内側へ戻るとバトンを握っていた右手を見つめた。

 何故今、あのリレーを思い出したのだろう。

 応援が過熱していく。

 顔を上げると、すでに最終走者が立ち上がり、準備をしていた。

 五組の代表である獅子屋の横に、公弘の姿が見えた。


 ――え?


 そういえば、昨日といいリレーのことを公弘も勇樹も口にしていない。

 勇樹の方を見ると、ウインクされた。

 二人は千尋を驚かせるために黙っていたのだ。

 わっと歓声が沸く。

 他の組を引き離して、四組と五組が接戦を繰り広げている。

 今、獅子屋と公弘の手に、ほぼ同時にバトンが渡った。

 トラックの内側を走っているのは獅子屋だが、公弘も負けじと食らい付いている。

 アンカーは一周だ。獅子屋がコーナーを曲がる際に大きく膨らんだ。隙間から公弘が内側へと入る。

 最後の直線。

 千尋は胸いっぱいに空気を送り込んだ。


「獅子屋――!!」


 獅子屋は獲物を狙う獣みたいに、全身の筋肉をばねにして、 公弘の一歩前へ出た。

 そして、二人は転がるようにしてゴールした。


「うっわー……負けると思わなかったー」

「……速いな、お前」


 二人は肩で息をしながら、くつくつと笑っている。


「次は負けねーから」

「次も負けるか」


 公弘の差し出した手を、獅子屋はぐっと掴んだ。

 拍手と歓声が鳴り響く。二人のデッドヒートで、運動会のスタートは最高の盛り上がりから始まった。




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