艱難辛苦 汝を玉にす
艱難辛苦 汝を玉にす 1
日課の早朝ランニングをしていると、いつも通る河川敷に差し掛かったところで朝日が上り始めた。
しん、と寝静まった世界に、朝の透き通る光が真っ直ぐと射し込んでくる。
河川敷に植えられた桜がぼんやりと浮かび上がって、幻想的な雰囲気をもたらしていた。
冬が終わり、春の訪れ。
季節が巡っていく。
花が世界を彩り、深い眠りについていた生き物は目覚めて動き出す。
それは当たり前のことと思いつつも、深く心の底に染みていくものを感じる。
嬉しさ、切なさ……それから、一抹の寂しさ。
その中でも
逆瀬は最初、書道パフォーマンスは邪道と言って受け入れてくれずにいた。
本当は今でもどこかでそう思っているのかもしれない。
でも、彼女は入部を許可してくれて、それからは正親達を誰より見守っていてくれた。
その逆瀬の卒業。
――オレの書は、誰かに思いを届けられるものになっただろうか。
山の稜線から、太陽がその姿を現した。
春を感じられるようになってきたとはいえ、早朝はまだ寒い。立ち止まってから数分。すでに汗が引いてきていた。
涙が浮かんできたのを、すっかり冷たくなった鼻の頭を指の背で擦ることで誤魔化す。
正親は朝日に染まり、動き始めた世界へ向かって駆け出した。
家に帰り、たっぷりかいた汗をシャワーで流すと、書道教室の畳の上に寝転がった。
畳の冷たさが、火照った身体に気持ちよかった。
いぐさが吸い込んだ墨の匂いが鼻の奥に広がって、包み込まれる心地がする。
深呼吸をすると、懐かしさと安心感で胸がいっぱいになった。
今日は入学式と新入生歓迎会が行われて、そのなかの部活紹介で書道パフォーマンスを披露することになっている。
新部長の
どこであれ、どういう理由であれ、書道パフォーマンスが出来る事が単純に嬉しい。
そういえば、
まだシャンプーの香りがする生乾きの自分の髪に触れて……諦めた。
正親は大きく口を開けて欠伸をすると、暖かくなってきた陽気に誘われるまま目蓋を閉じた。
学校に行くまでにはまだ時間がある。
少しだけならいいだろ――。
そうしてうつらうつらしていると、窓側の障子に影が映っていることに気付いた。
河川敷では七分咲きだった桜だが、獅子屋家の庭ではもう雨のようにはらはらと散り始めている。
その花の雨を背景に、映る人物の影。
正親はまだ覚醒していない頭を少し起こして、影の様子を窺った。
――夢、か? それとも、幽霊?
しかし、足音と影から推測した身長に当てはまる人物を思い出して、一気に覚醒した。
慌てて跳ね起きる。
背筋が寒くなり、心臓の音が耳の傍でしているかのように喧しい。
「おはよう、正親」
障子の向こうから現れた兄、
反対に、正親の表情が曇っていく。身体が石になってしまったように重たい。
「正親ぁ、お兄ちゃんになーんも教えてくれないなんて、水臭いじゃないかぁ。
……お前、書道パフォーマンス始めたんだって?」
「それ、は……」
「調子に乗ってんじゃねぇぞ、ド下手糞」
正親が書道パフォーマンスをしていると誰から聞いたのだろうか。
喉がカラカラに渇いて、唾を飲むけれど、それだけでは潤わない。
胡座で座っている正親の肩に手を置くと、正治は美しい笑顔を歪めた。
「お前なぁ、土俵変えたらオレに勝てると思ってんの?
我が弟ながら、そこまでバカだったとはね」
正治の侮蔑の言葉には慣れている。
正親はなるべく耳を閉ざし、視界にも映すまいと心を閉ざして耐えようとした。
けれど、正治はそんな弟の意思を、子供が新雪の上を走り回るかのように簡単に踏み躙る。
正親の白の世界を、無邪気に黒く塗り潰していく。
「書道パフォーマンス、オレも始めたから」
耳元で囁かれた言葉は、まるで死の宣告のように感じた。
正親は驚き、正治を見上げる。
――なぜ、兄貴が書道パフォーマンスを?
そう問いたいのに、口から出てくるのは、掠れて声にならない声。
「じゃあね、正親。せいぜい頑張って」
正親を傷付けて満足したのだろう。満面の笑みで正治が立ち去っていく。
足音が遠ざかっていき身体の緊張が解けると、正親は自分の両手が震えていることに気付いた。
頭を揺らすほどの強烈ないぐさの匂いと、墨の匂いに呼吸が荒々しく乱れていく。
丁度一年ほど前に、ここで千尋と幸に『夢』という文字を書いて見せたのを思い出す。
――千尋。
正親の捨てた『夢』の書を拾い上げた、親友であり相棒。
正治がなんと言おうと、千尋となら書ける。
書道パフォーマンスができる。
正親は襲い掛かってくる不安から逃れようと、学校へと向かうことにした。
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