艱難辛苦 汝を玉にす

艱難辛苦 汝を玉にす 1


 日課の早朝ランニングをしていると、いつも通る河川敷に差し掛かったところで朝日が上り始めた。

 しん、と寝静まった世界に、朝の透き通る光が真っ直ぐと射し込んでくる。

 河川敷に植えられた桜がぼんやりと浮かび上がって、幻想的な雰囲気をもたらしていた。

 獅子屋ししや 正親まさちかは立ち止まり、瞳の奥へと刺さってきそうな朝日の眩しさに目を細めた。

 冬が終わり、春の訪れ。

 季節が巡っていく。

 花が世界を彩り、深い眠りについていた生き物は目覚めて動き出す。

 それは当たり前のことと思いつつも、深く心の底に染みていくものを感じる。


 嬉しさ、切なさ……それから、一抹の寂しさ。

 

 一月前ひとつきまえ、書道部の先輩方の卒業を見送った。

 その中でも逆瀬さかせ元部長は、――正親の祖母が指導している書道教室に居たから、昔から顔馴染みではあったけれど――同じ部活の先輩後輩になってから親しくなれた。

 逆瀬は最初、書道パフォーマンスは邪道と言って受け入れてくれずにいた。

 本当は今でもどこかでそう思っているのかもしれない。

 でも、彼女は入部を許可してくれて、それからは正親達を誰より見守っていてくれた。

 その逆瀬の卒業。

 はなむけの言葉代わりに、書道パフォーマンスを贈ったけれど、どのくらい届いてくれただろうか。


 ――オレの書は、誰かに思いを届けられるものになっただろうか。


 山の稜線から、太陽がその姿を現した。

 春を感じられるようになってきたとはいえ、早朝はまだ寒い。立ち止まってから数分。すでに汗が引いてきていた。

 涙が浮かんできたのを、すっかり冷たくなった鼻の頭を指の背で擦ることで誤魔化す。

 正親は朝日に染まり、動き始めた世界へ向かって駆け出した。



 家に帰り、たっぷりかいた汗をシャワーで流すと、書道教室の畳の上に寝転がった。

 畳の冷たさが、火照った身体に気持ちよかった。

 いぐさが吸い込んだ墨の匂いが鼻の奥に広がって、包み込まれる心地がする。

 深呼吸をすると、懐かしさと安心感で胸がいっぱいになった。

 

 今日は入学式と新入生歓迎会が行われて、そのなかの部活紹介で書道パフォーマンスを披露することになっている。

 新部長の屋古やこは、書道パフォーマンスに好意的で、今回のように取り入れてくれることもあれば、手伝ってくれることもある。

 どこであれ、どういう理由であれ、書道パフォーマンスが出来る事が単純に嬉しい。

 そういえば、千尋ちひろに「今日はちゃんと髪型整えてから来いよ」と釘を刺されたのを思い出した。

 まだシャンプーの香りがする生乾きの自分の髪に触れて……諦めた。

 正親は大きく口を開けて欠伸をすると、暖かくなってきた陽気に誘われるまま目蓋を閉じた。

 学校に行くまでにはまだ時間がある。


 少しだけならいいだろ――。


 そうしてうつらうつらしていると、窓側の障子に影が映っていることに気付いた。

 河川敷では七分咲きだった桜だが、獅子屋家の庭ではもう雨のようにはらはらと散り始めている。

 その花の雨を背景に、映る人物の影。

 正親はまだ覚醒していない頭を少し起こして、影の様子を窺った。

 

 ――夢、か? それとも、幽霊?


 しかし、足音と影から推測した身長に当てはまる人物を思い出して、一気に覚醒した。

 慌てて跳ね起きる。

 背筋が寒くなり、心臓の音が耳の傍でしているかのように喧しい。

 

「おはよう、正親」


 障子の向こうから現れた兄、正治まさはるは誰からも愛される笑顔を覗かせた。

 反対に、正親の表情が曇っていく。身体が石になってしまったように重たい。


「正親ぁ、お兄ちゃんになーんも教えてくれないなんて、水臭いじゃないかぁ。


 ……お前、書道パフォーマンス始めたんだって?」

「それ、は……」

「調子に乗ってんじゃねぇぞ、ド下手糞」


 正親が書道パフォーマンスをしていると誰から聞いたのだろうか。

 喉がカラカラに渇いて、唾を飲むけれど、それだけでは潤わない。

 胡座で座っている正親の肩に手を置くと、正治は美しい笑顔を歪めた。


「お前なぁ、土俵変えたらオレに勝てると思ってんの?

 我が弟ながら、そこまでバカだったとはね」


 正治の侮蔑の言葉には慣れている。

 正親はなるべく耳を閉ざし、視界にも映すまいと心を閉ざして耐えようとした。

 けれど、正治はそんな弟の意思を、子供が新雪の上を走り回るかのように簡単に踏み躙る。

 正親の白の世界を、無邪気に黒く塗り潰していく。


「書道パフォーマンス、オレも始めたから」

 

 耳元で囁かれた言葉は、まるで死の宣告のように感じた。

 正親は驚き、正治を見上げる。


 ――なぜ、兄貴が書道パフォーマンスを?


 そう問いたいのに、口から出てくるのは、掠れて声にならない声。


「じゃあね、正親。せいぜい頑張って」


 正親を傷付けて満足したのだろう。満面の笑みで正治が立ち去っていく。

 足音が遠ざかっていき身体の緊張が解けると、正親は自分の両手が震えていることに気付いた。

 頭を揺らすほどの強烈ないぐさの匂いと、墨の匂いに呼吸が荒々しく乱れていく。

 丁度一年ほど前に、ここで千尋と幸に『夢』という文字を書いて見せたのを思い出す。


 ――千尋。


 正親の捨てた『夢』の書を拾い上げた、親友であり相棒。

 正治がなんと言おうと、千尋となら書ける。

 書道パフォーマンスができる。



 正親は襲い掛かってくる不安から逃れようと、学校へと向かうことにした。



 

 

 



 

 

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