思う念力 岩をも通す 2



 八時半を回ると、生徒達が続々と体育館へ入場してきた。

 どたどたと体育館中に響く足音。これから始まる学園祭に、期待で声が弾んでいるのがわかる。

 千尋はスマホを取り出すと、松下に「動画を撮ってほしい」とメッセージを送った。

 返事がないのが些か気になるけれど、彼のことだから頼まれごとを無下にしたりはしないだろう。

 千尋と獅子屋の出番は最初も最初、生徒会長による学園祭の挨拶の中で発表される。

 幕を下ろされたステージで、千尋と獅子屋、そしてサポートの屋古が準備を始めた。

 風呂桶一杯の墨汁、三十五センチほどの大きな筆。

 ステージいっぱいに広がる和紙。

 そして、ポケットから真田紐を取り出す。

 片側を咥えて一人で結ぶ――のは出来なかったため、屋古に協力してもらった。

 一方獅子屋は手馴れているのか、するすると一人で結んでいる。

 袴姿の二人に対して、屋古は書道部で度々使っている黒ジャージだ。


「オレは裏方やからなぁ」 


 屋古に背中を叩かれて、二人は背筋を伸ばした。 


「ほんなら、初舞台、気張っていきましょーか」


 幕のすぐ裏に千尋と獅子屋は待機し、屋古はステージの奥に正座する。

 照明が落ちて、会場のざわめきが静まっていくのと対照的に、千尋の胸は段々と騒がしくなっていく。

 生徒会長が幕の向こうで、挨拶を始めた。

 時折入る合いの手や拍手で、会場全体が盛り上がっているのがわかる。


「今回の学園祭のテーマを、書道部が書道パフォーマンスで書き上げてくれます。皆さんも、サビで人差し指を高く突き上げて盛り上げてください」


 幕が開く。ステージ全体を照明が明るく照らす。千尋は、獅子屋と深く頭を下げた。


「それでは、お願いします」


 顔を上げると、千尋の目にたくさんの目が映った。

 一つの学年に二百人近く在籍している。三学年合わせれば、六百人を超える。

 ステージからは、一人一人の表情が窺えるほどよく見えた。

 みんなと視線が合っているような錯覚を覚える。

 ステージ側から、三年、一年、二年と並んで座っていて、。逆瀬、小山だけではなく、書道部と美術部の面々がどこに座っているのかまでわかる。

 顎はカタカタと震えて、唾液が上手く飲み込めない。

 千尋は体中に力が入ったかと思うと、呪いにでもかけられたように動けなくなった。


 ――獅子屋は、緊張してないのだろうか。


 いつも剛胆な彼の様子を、横目で窺う。

 獅子屋は、新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせていて、不敵な笑みを湛えている。

 とても、緊張している素振りは一切見られない。

 書道部も美術部も、完成した作品を見せることがあっても、こうして舞台に立つことはない。

 誰かの注目を浴びるときは、なにか表彰されるときくらいだろう。

 千尋は獅子屋を見習って口角を上げてみた。

 それで緊張が解けたわけではないけれど、少しだけ自分を奮い立たせることはできた。


 ――やれる。


 WANIMAの『アゲイン』が流れる。

 側に置いていた墨の入った桶を拾い上げると、獅子屋が紙の中心付近に大きく『All』と書くのを見届けて、千尋は『for One』の部分に着手する。

 イメージは、駆け抜けること。

 リレーのときの大地を蹴る感覚。

 獅子屋の背を追いながら、校舎の周りを風を切ってランニングする感覚。

 勢いよく、筆を叩きつけるようにして、筆が腕と一体になったようにして書く。

 書く。

 書く。

 たった六文字。獅子屋の書く分は二倍以上だ。

 どれだけ集中していたのだろうか。体が固まってしまうようなさっきの緊張はもうどこにも無かった。

 観客の目すら、千尋の視界には入らない。

 自分の足元に広がるまっさらな和紙と、たった六文字のアルファベット。そして、墨で書いている自分だけしか感じられなかった。

 書き終わって顔を上げる。

 獅子屋も同じタイミングで書き終わったのか、視線が重なった。

 丁度音楽が鳴り止んで、二人はまたステージの前の方で慌てて並び立ってお辞儀をした。

 タイミングを窺うような、まばらな拍手が起こる。

 生徒会長がステージに上がってきて、四人で出来上がった書を掲げた。

 その瞬間、会場全体が揺れるような歓声が響いて、雷のような拍手が起こる。

 千尋はどこかへ自分を置いてきてしまったかのように、ぼうっとその光景を見ていた。

 マイクを手にした生徒会長が拍手を収める。


「 『One for All All for One~心をひとつに~』 。今回のスローガンです。彼らにはもうお話させて頂きましたが、 このスローガンは、一人はみんなのために、みんなは一つの目標のためにという意味で付けました。

 この学園祭がいい思い出になるように、全力で楽しんでいきましょう。いいスタートを切ってくれた書道部にもう一度拍手をお願いします」


 幕が下りるまで、ずっと頭を下げていた。その間、拍手が一瞬も鳴り止むことはなかった。

 次の進行へ移って、やっと顔を上げると、観客の顔ではなく臙脂色の幕が視界に映る。

 先ほどの緊張とは違う、胸の高鳴り。今すぐにでも駆け回りたい。

 誰かにこの気持ちを伝えたい。

 振り返ると、力尽きた屋古が体育座りで、手を挙げた。


「……お疲れ。はよ片付けよか」


 次にステージを使う、演劇部が舞台袖で待機している。

 千尋は慌てて撤収にかかった。


「獅子屋、早く――」


 獅子屋を振り返ると、彼は未だ幕の向こうの観客席に思いを馳せているようだった。

 その場から動く様子がない。

 気持ちは痛いほどわかるけれど、今は演劇部にこの場を明け渡さねば。

 獅子屋にそっと近付いた千尋は、後ろから膝カックンを仕掛けた。





 道具を持って舞台袖へ引っ込むと、やっと自分達の書いたスローガンを見ることが出来た。

 今までで一番力強くて、気持ちの乗っている書だ。


「いやぁ、しかし二人とも本番に強いっていうかなぁ。勢いよすぎて、お兄さんあっちもこっちも墨を押さえなあかんかったから大変やったで」


 まるで詰るような言葉使いだが、屋古の視線は柔らかくて温かい。


「ありがとうございます、屋古先輩」


 そうこうしている間に、演劇部の劇が始まってしまった。


「ほら、席に戻らな」

「はーい」


 舞台袖から、演劇部の様子をちらりと覗く。

 光の当たる舞台。



 また、あそこに立ちたいと、千尋は強く願った。





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