朝虹は雨 夕虹は晴れ 4
そして、また雨の一日が始まった。
千尋は折り畳み傘から丁寧に水気を取ると、背負っていた学生カバンを下ろして仕舞った。
千尋が教室に入ると、いつになく静かだった。
「おはよう」
声をかけると、千尋に視線が集まる。
「……おはよう、羽鳥くん」
「おはよう」
どこか暗い表情のクラスメイトの間を抜けて、自分の席に着くと、すすり泣く声が聞こえた。
振り返ると、隣の列の後ろのほうに座る、矢野が泣いているようだ。
彼女はテニス部に所属するスポーツ少女で、性格も明朗でクラス内でも中心に居る。その人望で委員長をやっている。
――え、なにこの状況。
みんなが白い目で彼女を見ている。
外の雨の音が聞こえてくるほど、室内はいつになく静まり返っていた。
「なにかあったの?」
すでに登校していた広瀬に聞くと、広瀬も困ったような表情で耳打ちしてきた。
「矢野が席替えのことで、くじ引きにしないかって提案したら反感買っちゃって」
明日のロングホームルームに席替えが行われる。それがちゃんと纏まらなければ、席替えの話そのものが無かったことにされてしまう。
矢野が思い立って、くじ引きを提案したのだろう。そして、その提案は受け入れられなかった――というところまで想像出来て、矢野が不憫に思えた。
泣き腫らした目が痛々しい。
千尋は立ち上がると、矢野にハンカチを差し出した。
「え……?」
「目、冷やしたほうがいいよ」
矢野が悔しそうに唇を噛み締めて、千尋にハンカチを押し戻すと、教室を飛び出して行った。
「羽鳥ってさー、矢野のこと好きなのかー?」
男子のボス的な存在、赤井の、下卑た大きな声が聞こえてきて、千尋は受け取って貰えなかったハンカチを握り締めた。
「……僕は、誰かが泣くくらいなら席替えしなくていいと思うけど。矢野さんは、君達みたいにふざけた人が居るからくじ引きを提案したんじゃないか?」
「はぁ?」
千尋が言い返すと思っていなかったのか、周囲に険悪なムードが漂う。
教室の両端から睨みあう赤井と千尋の間に、スカートを翻して幸が立ちはだかった。
「あの……今日の放課後、少しだけ話し合いませんか? このままだとみんな納得いかないだろうし、明日まで待ってたらきっと決まらないと思うから」
「放課後ってさぁ……また、部活遅れるじゃん」
「そう、だけど」
今度は批難が幸に向かう。クラス中、ストレスが溜まっているのだろう。
「じゃあ、このままでいいの?」
幸の言葉に、ざわめきが収まる。よくない、という思いは共通しているようだ。
「……僕は、八乙女さんの意見を尊重します。席替えは自分達のことだから、自分達で解決しませんか」
千尋の提案に、渋々といった感じで賛成の声が上がった。
「じゃあ、わたし、矢野さんを呼びに行ってくるね」
「あ、八乙女さん」
出て行こうとする幸にぎりぎり追いついて、千尋は「ありがとう」と告げた。
席に戻ろうとした千尋の背中を獅子屋が労って叩いてきた。
「かっこよかったよ、千尋」
「そう思うなら助けてくれよ」
そんなそっけない返しをしながら、味方で居てくれた獅子屋に心の内で感謝した。
放課後、三森が教室から出て行くと、生徒はもう一度席に着いた。
それぞれ部活があるため、不服そうな雰囲気は漂っている。千尋も昼休みに逆瀬と品川に遅刻する旨を伝えに行ったときは気が重かった。
一度は泣いて教室を飛び出して行った矢野が、教壇に立つ。その表情や態度は、心細そうではあるものの、委員長としての役を放棄していないことを称えたい。
「それでは、意見はありますか?」
「くじ引き以外ー」
赤井がまたふざけて笑う。
「僕はくじ引きでも構わないです」
張り合うように、千尋が声を上げる。
また険悪な雰囲気になる中、すっと手を上げる人物が居た。
「……えっと、松下くん」
「とりあえず、男女で分かれてグループを作ればいいんじゃないか。三人ずつのグループが九つ。男女合わせて十八出来れば、後はくじ引きでもアミダでもして決めたらいい」
「じゃあ、今とりあえず作ってみようよ」
席を離れて、それぞれ好きな人で纏まる。その光景を、千尋は客観的に眺めていた。
みんな昨日のこともあってぎこちなさはあるものの、やはり好きな人と同じ班を組みたい気持ちは変わらない。二人のところもあれば、三人のところもある。
――このままじゃ、昨日と同じだ。
千尋が懸念していると、獅子屋が教壇に上がった。元々の背もあって、自然と周囲の目が集まる。
「……なあ、別に席替えって一回しかない訳じゃないからさ。今回好きなヤツと組めなかったヤツは次回に譲ってやればいいんじゃないか」
「そっか、それをくじで公平に引けばいいか」
「そうそう。そのグループの代表とか作ってさ」
獅子屋と千尋のやり取りを聞いていて、賛同者は増えていった。
「じゃあ、あたし、明日までにくじ作っておくね」
矢野が今日初めて心から笑って見せた。
「とりあえず、出来たグループの代表、名前書いてよ」
ノートから一枚切り離して、紙を提供すると、名前で余白が消えていく。
ホッとする反面、千尋の目に同じようにグループを作らずに成り行きを見守っている、獅子屋と松下が映る。
――ああ、もう。
千尋は獅子屋の腕を強引に引くと、松下の前に躍り出た。
「なに?」
「僕と一緒の班になろう」
獅子屋も松下も状況が飲み込めないのか、反応が薄い。
「聞こえなかったか? 僕と一緒の班に――」
「いや、聞こえてはいたんだけどな」
「……羽鳥はそんなキャラじゃないと思っていた」
「じゃあ、どんなキャラだよ」
千尋がそう応えると、松下が薄く笑った。
「一人でも平気とか言うやつ」
「……そんなことないけど」
昨日獅子屋にも他人に興味なさそうなレッテルを貼られていたことを思い出して、千尋は一体他者にどう思われてるのかと首を傾げた。
「くじ引きは誰が行く?」
「千尋だろ」
「そうだな。羽鳥でいいんじゃないか」
回ってきた紙に、千尋は自分の名前を書いて、後ろのグループに回した。
「今日はこれで終わります。残ってくれてありがとうございました!」
矢野が頭を深々と下げて、この日の話し合いは終わった。
十分程度で終わったこともあって、不満の声もとくに上がっていない。
慌しく出て行くクラスメイトたちと一緒に、千尋と獅子屋も書道部に急いだ。
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