独り冬夏に有りて、青々たり

独り冬夏に有りて、青々たり 1



 七月末日。

 千尋の絵を展示していると聞いて、獅子屋は久しぶりに美術館を訪れた。

 書道展で自分の作品が展示されて以来だから、一年ぶりだろうか。

 美術館は静謐な場所という印象が強いが、夏休みもあってか、あちらこちらから子供のはしゃぐ声がする。

 獅子屋の目指す展示室も、人気は多く、幅広い世代が楽しんでいた。

 こうして足を運んではいるものの、絵画を立ち止まってまじまじと観る程の興味も関心もない。

 獅子屋は一歩一歩と大きな歩幅で進み、ある絵の前で立ち止まった。

 色鮮やかな天使の絵だった。

 作者の名前を見て、腑に落ちる。

 技術は、他の絵より劣るかもしれない。けれど、そこに描かれた天使の柔和な表情に、自然と目が引き寄せられる。

 獅子屋と同じように千尋の絵を立ち止まって観ている人がいる。


 ――やっぱ、千尋ってすげぇな。


 前へ突き進む千尋を側で見ながら、今の自分はどうだろうか、と考える。

 いつも結論は出ないまま、その問いは獅子屋の心に小さな影を落としていく。

 自分の感情の小さな変化は見て見ぬふりをして、獅子屋は美術館を後にした。




 八月十日。

 暑さで意識が浮上してくると、盛大な蝉時雨が聞こえてきた。

 次いで濃い畳の匂いと、墨の匂い。

 障子も窓も開け放っているものの、風はないのか風鈴も鳴らない。

 じめじめした空気の中で、ぼんやりと天井を眺めた。

 獅子屋は自室ではなく、書道教室で昼寝を取っていた。

 幼い頃から、自室に居るよりもここに居る時間のほうが多かったせいで、今でもふらっと来てはここで一日を過ごしたりする。

 寝ている間に体中から滲み出た汗が気持ち悪くて、ごろりと寝返りを打つと、目の前に江戸切子のグラスになみなみと注がれた麦茶を置かれた。

 江戸切子の独特な彫りが、部屋に射し込んでくる光を集めて、麦茶を黄金色に輝せている。


「正親はここがほんと好きね」


 グラスの向こうに、藤色の浴衣を着た祖母が腰を下ろした。手には黒と赤の金魚の泳ぐうちわ。

 それを、ゆっくり――金魚の尾びれのようにして、扇いでくれる。 

 うちわによる柔らかな風が、熱く火照った体に心地よい。


「……ばあちゃん」

「ほら、麦茶を飲みなさい」


 渋々上体を起こして、一口含むと、体が水分を欲していたのか、グラスを傾けて一滴残さず飲み干す。食道から胃へ、冷たい麦茶が通っていくのを感じる。


「気をつけないと、熱中症になるわよ。エアコンくらいつけなきゃ」


 四十度近い気温の中、着物を着崩すことなく纏っている祖母は、柔らかな笑みを浮かべながら、空のグラスにおかわりを注いでくれた。


「ありがとう」


 二杯目も味わうことなく一気に飲み干すと、やっと目覚めたような感じがした。


「ほいで、今度は何を悩んでるで」


 うちわで風を送りながら、祖母は柔らかな訛り混じりに尋ねてきた。

 獅子屋は後頭部をがりがり掻くと、祖母に向き直るようにして座り直した。


「……もっと、上手くなりたい、と思って」

「また生意気なことを」


 いつも凛としている祖母の上品に笑う姿が、獅子屋は大好きだった。


「あんたに教えれることは、ばあちゃん全部教えたよ」


 祖母は元々、この書道教室を開いた人物で、去年引退するまでずっと先生を務めていた。

 獅子屋兄弟はみんな祖母の手解きで書道を始めている。

 仕事人間の母親の代わりに、祖母はいつも傍に居てくれた。

 お陰で、兄弟みんなお祖母ちゃんっ子だ。

 ……祖母の前ではつい気が緩む。


「でも、オレ、もっと上手くなりたいっ……」


 込み上げてくるものを言葉にする。

 文章に出来るような余裕は無くて、思いをそのまま列挙する。

 千尋のこと。兄のこと。書道部のこと。

 書道パフォーマンスのこと。

 嫉妬。憧憬。

 努力の実らない虚しさ。

 祖母はただ優しく頷いて聞いていてくれた。






 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る