独り冬夏に有りて、青々たり 2



「思うままに書きなさいな。あんたの字は、あんたしか書けないんだから」


 この言葉を掛けられたのは二度目だった。

 前回は素直に受け入れられなかったけれど、今回は胸が空く思いがした。


「……ジョギング行ってくる」

「まだ暑いから、気をつけなさいよ」


 書道教室を出ると、天高くあった日はゆるゆると西へ沈んでいた。

 体を慣らすようにストレッチをして、前髪を適当に結んでから、まだ暑いアスファルトの上を、ゆっくりと走り始めた。

 いつもの道から少し遠くへ。夏休みに入ってから、川に沿って走るのが楽しくて、気付けば隣の町まで行っていることもある。

 走りながらも、頭の中は書道のことでいっぱいだった。

 六月に行われた全国的な書道の大会の予選の結果が、夏休みの前に届いた。

 残念ながら、東南中の書道部で予選を勝ち上がった者はいなかった。

 逆瀬や屋古は同じ学年の中でも上手いほうに思うが、千を越える応募数の中では目に留まるに至らないらしい。

 今は秋にある農林水産大臣賞や文科大臣賞のある大会を目標に、書道部は活動をしている。

 書道パフォーマンスをする傍ら、コンクールに向けて頑張っている逆瀬や屋古の姿を見ていて、もっと書きたいと衝動に駆られた。


 ――コンクール、か。


 苦い思い出が蘇る。

 書きたい思いはいつもあるものの、今はまだ、あのぴりぴりした空気の中に入りたくない。

 今は、千尋と感じたままに書に触れるのが楽しくて仕方なかった。


 初めて千尋と出会ったときのことを思い出す。

 もうこれ以上書けないと、書道から身を引こうと思っていたところに、引き戻させたのは千尋の絵だった。

 自分の『夢』の字から広がっていく、生き生きとした鳥や魚の絵。

 あれは、自分の『夢』の字から、インスピレーションを受けたのだろうか。

 そして、その千尋の姿を見て、こいつとならもう一度始められるような気がして、書道パフォーマンスに引き込んだ。

 ……結局、今も書を辞められずに続けている。



 ――獅子屋!



 千尋の声が聞こえたような気がして、振り返った。

 たしか、夏休みが始まってすぐに、走っていたところを千尋に声を掛けられた場所だった。

 千尋は今、お父さんおじさんがお盆休みだからと、県外へ旅行に行っていたはずだ。

 部活もお盆が明けるまで休みで、本格的に活動できるのは千尋が帰った頃だろう。

 一級河川の周囲は、大きな建物も無くて、視界は開けている。

 風が獅子屋の髪を揺らしながら駆け抜けていく。

 丁度太陽が燃えるように赤く輝きながら、山の向こうへと沈んでいくところだった。

 千尋だったら、この光景を見てどんな作品にするだろうか。


 ――オレは。オレなら。

 

 全てを焼いてしまいそうなほど、圧倒される赤だった。

 周りの景色は境界線がわからないほどに染まっている。

 自分の体まで溶けてしまうのではないか、そう思うほど、どこまでも、どこまでも赤くて――視界が真っ赤に滲んだ。

 そうして光が消えてなくなる最後の一瞬まで、夕陽を見つめていた。


 家に帰って汗を流すと、書道教室に明かりが灯っているのに気付いた。

 適当にサンダルを履いて、教室の引き戸を開ける。

 ……鍵が掛かっていない。

 しっかり者の祖母が鍵を閉めたはずなので、泥棒じゃなければ、思い当たるのは一人しかいない。

 開いている襖の端から覗くと、祖母から書道教室を引き継いだ、叔父の守親が畳みに寝転がっていた。

 よく獅子屋は叔父に似ていると言われるが、大の字に寝転がっている姿を見ていると、少し複雑な気持ちになる。

 声をかける前に、気付いた守親がのそのそと起き上がった。図体の大きいのも、獅子屋家の特徴だ。

 頭一つ分大きい叔父は、獅子屋の頭を力一杯撫でた。

 風呂上がりのボサボサ頭が、さらに芸術的にボサボサになる。


「よぉ、誕生日おめでとう」

「誕生日……って、オレの誕生日、明日」

「そうだったっけ? まあまあ、これやるからさ」


 手に乗せられたのは、ラッピングもなにもない白い箱だった。

 大きさと重みでなんとなく察する。


「筆?」

「ご名答。ほら、開けろよ」

「……熊野筆! しかもイタチ毛だ」


 書道のこととなると表情がくるくる変わる甥を見て、守親は安堵した。


「書道パフォーマンス、してるんだって?」

「ああ、二人しか居ないけどな」

「……辞めるなよ」


 守親は獅子屋の肩を叩くと、「じゃあな」とひらひらと手を振ってまたごろりと横になった。

 今夜はここに泊まるつもりだろうか。

 ちゃらんぽらんにしか見えないが、意外と心配してくれているのかもしれない。


「……ありがとう」


 貰った筆を丁寧に箱に戻してから、獅子屋は教室を後にした。







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