真夏の優遊涵泳

真夏の優遊涵泳 1


 夏の朝の爽やかな日差しの中、青々とした芝生と木々が、暑さを気持ち忘れさせてくれる。美術館の様々な形のオブジェが並ぶ庭の片隅で、千尋は幸を待っていた。

 先ほどからスマホを見たり、前髪を弄ってみたり、そわそわと落ち着きがない。

 そんな自分の行動に呆れつつも、なにかしていないと不安で押し潰されそうになる。

 幸に恋心を抱いていると気付いてから、幸のことを考えることが増えてきた。

 夏休みに入って、会っていないことも理由としてあるのかもしれない。

 何をしているだろうか。宿題はどれほど進んだろうか。他愛のない話がしたくて、いつも脳内で幸に語りかける。

 何も無いのに顔が綻んでしまうことも、夜な夜な胸を締めつけられるほど切なくなることも、千尋にとっては未知の体験だった。

 公弘は毎回こういう想いを抱いて、恋はいいものだと教えてくれていたのだろうか。


「羽鳥くん、おまたせ」


 幸は淡いブルーのギンガムチェックのワンピースを着ていた。

 いつも下ろしていた髪を、今日はポニーテールに結い上げていて、耳にはひまわりの形のイヤリングをしている。

 それだけで、大人っぽく見えて、千尋は急に体温が上がるのを感じた。


「時間通りに来たけど、羽鳥くんが待ってたならもう少し早めに来たらよかったなぁ」

「え?」

「そのほうが長く見て回れるもん」

 ね、と幸は柔らかな頬を染めてはにかむようにして笑った。

「……そうだね」


 感情の奔流で、流されないようにいっぱいいっぱいになっている千尋は、赤くなっているであろう自分の表情を幸に気取られないようにするのに必死だ。

 幸の半歩後ろを歩きながら、千尋は振られてくる話題に答える。

 夏休みに入ってからの一週間会っていない分、幸も話しても話しても話題が尽きないようだ。

 楽しげに話す幸の横顔を見つめながら、千尋はその話題ひとつひとつを丁寧に掬いあげるように頷いた。

 美術館の中は、夏休みということもあって親子連れで賑わっている。外との温度差で一瞬肌寒く感じたものの、すぐに涼しさを心地よく感じるようになった。

 幸と受付で美術部の部長である小山に貰った招待券を提示する。

 常設展と特別展両方見れるようになっているので、先に常設展から観て回ることにした。


「美術館自体久しぶりかも」


 コローやミレーなど、バルビゾン派の風景画を、幸は興味深く観ている。


「羽鳥くんは、どんな絵が好き?」

「僕は、風景と牧歌的なのが好きかな。農民の暮らしとか、この水辺で牛が休んでいる絵とか」

「へぇー……綺麗な絵だね」

「ファンタジーとまではいかないけど、不思議と幻想的に感じるよね。八乙女さんは? 気になる絵がある?」


 幸は、周囲の絵を見渡しながら、一枚の絵の前で立ち止まった。


「この絵、好きだなぁ」


 作者が妻を描いた人物画だった。こちらをまっすぐ見ているその瞳は、微かに潤んでいるように描かれている。


「すごく優しい表情だから、きっと描いてる人と愛し合ってたんだろうなぁって思う」

「そうだね」


 幸の感想に共感をしつつ、絵に思いを馳せる。もし今、幸をモデルに絵を描いたとして、自分もこのように幸を描けるだろうか。

 無理だろうと思う自分と、もっと魅力的に描けると思う相反する自分に気付いて、千尋は苦笑いを浮かべた。

 二人でのんびりと常設展を見て出ると、頃合になったのでレストランで軽食を食べることにした。

 幸はサンドイッチとミルクティーを、千尋はドリアにアイスティーを頼んだ。

 美味しそうに食べている幸を前に、緊張して味がわからなくて黙々と食べていた。

 ……たぶん、美味しかったように思う。

 午後は企画展を、と展示室へ行ったものの、体験型の企画展は、小学生で大賑わいで、あまりゆっくりと観ていられなかった。


「残念」

「ふふ。でもほら、まだ観るところあるよね」


 幸が示した先に、こじんまりとした展示室がある。


「獅子屋くんが言ってたよ。羽鳥くんの作品があるって」


 本当はずっと誘おうか迷っていた。会った途端になんだか気恥ずかしくて、誘いにくくなってしまった。

 先日幸にあげた『雨』の書とは違って、美術部での作品は千尋のあまり見せたくないような一面も描いている。


「あー……うん」


 ――獅子屋め。


 恨みたいような、褒めたいような複雑な思いに駆られながら、幸と一緒に展示室へと向かった。足取り重い千尋の腕を掴むと、幸ははしゃぎながら作品を観て回る。

 腕を掴まれているだけなのに、全神経がそこにあるかのように集中して、幸の話が上手く聞き取れない。


「あ、あったよ! 羽鳥くん!」


 やっと腕を解放されて、ほっと息を吐くと、千尋は幸と自分の作品の前に立った。

 こうして額に飾られて、展示されている自分の作品を観ていると、自分で制作したものという感覚が抜け落ちる。

 急にはしゃいでいた幸が黙ってしまったのが気になって、横を見ると、幸は目に焼き付けるかのように作品を見詰めていた。

 千尋は、その光景が過去の記憶と重なって見えた。

 千尋の作品を、見詰める女の子。


 ――八乙女さん。僕達もしかして、昔会ったことある?


 口にしかけて、ナンパのセリフのようだと気付いて、言葉にするのを辞めた。


「羽鳥くんは、何でも描けるんだね」

「そんなことはないけど」

「そんなことあるよ」


 幸はスマホの画面を千尋に向けた。ロック画面は、千尋が美術館の招待券と渡した『雨』の書が映っている。


「お家に飾ってるんだけど、いつでも見れるように写真撮ったんだ。この書も、この絵も……羽鳥くんの作るもの、すごく好き」

「……ありがとう」


 照れもなく、心の底からそう言えた。



 




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