藤元杏はご機嫌ななめ/吉野茉莉
MF文庫J編集部
藤元杏はご機嫌ななめ ―彼女のための幽霊―
プロローグ「うそつきはうたうたいのはじまり」
プロローグ「うそつきはうたうたいのはじまり」
一定の上下のリズムが深く腰を下ろした緊張のない体にじんわりと伝わっていく。
ごとん、と一度大きく揺れ、左頬に隣人の髪の毛が触れた。
窓の外を見るため左に顔を四十五度ほど曲げる。
まったく、といつもの乾いた湿度のない声で彼女が呟いた。
「まったく」
彼女の言葉を自分も繰り返していた。
「どうしてこんなに憂鬱なんだろうね」
彼女の言葉が自分に向けて言われているのは理解していたが、無視を決め込むことにする。
「馬がいる」
牧場のようなものが見えた。
青々とした草原で栗毛の馬が並んでいる。
「だから?」
僕の言葉が聞こえたらしく、彼女がこちらを一瞥する。
「鹿はいない」
飛び出し注意の鹿のマークが高速で流れていく。
「そう」
面倒そうな乾いた声で彼女が返す。
僕の高度なジョークには気がつかなかったようだ。
彼女はぐにゃりと体を前に倒し、無造作に床に置かれている革カバンから、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
ピンク色のキャップを回し、のどを湿らす程度に一度だけ口に含んだ。
落ち着いたのか体ごとこちらに向く。
今日は制服姿ではない。
フリルのついた水色のスカートに、膝まで覆う黒いオーバーニーソックスと、体にぴったりあった七分丈の白いシャツを着ている。
少々子供っぽいのでは、とは思ったがファッションに興味がない僕にはわからない。
意外と体の線は細いんだな、と思った自分に、意外とはまた不謹慎な感想だ、と忠告をした。
「やっぱり」
真剣な顔で、小さな丸い瞳を二度閉じた。
それが単なるポーズであることを伝えるためだった。
私は後悔していますよ、と。
「電車で行けばよかった」
「車で行きたいと言ったのは杏さんだよ」
彼女は眉毛の上で真横に切り揃えられた前髪を揺らせて、首をゆっくりと振った。
「確かに言ったけど。でもバスとは言ってないでしょ」
「バスも車の一種だ」
「屁理屈お化け」
「お化けはもうこりごりだ。少なくとも夏までは控えめに摂取したい」
「それには同意するしかないわ、残念だけど」
今日初めて僕の言葉に同意をしたようだ。しかも何故か不快らしい。
「杏さんは、僕に任せる、と言った」
「最悪な選択だったかもね」
最悪、という言葉を貴重な日曜の朝にまで吐いて、まるで世の中には最悪なことしかないような素振りを見せている。
「あと何秒で着くの?」
「せめて分で考えられないかな、でも3600秒もかからないよ」
言ったそばから、彼女はいーち、にーい、とカウントをし始めた。
やれやれ、と独りごちながら、僕は目を閉じて世界を一週間前に巻き戻す。
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