金曜日「帰納法的分析(もしくは分散)」1
真っ暗な世界から今日も目覚める。
靄のかかった視界は次第に部屋を映し出す。
今日も朝が来たのだ。
安堵するとともに胸をぐっと押さえる。
現実の痛みを与えてやれば、仮想の痛みを誤魔化すことができるのを知っているからだ。
そうして、現実の時間の流れを感じて、一日を始める。
私にとって、たまに見る夢には良いところと悪いところがある。
それはどちらも覚えてしまっているということだ。
それが夢だったこともその中で何があったかも全て覚えている。
おぼろげなんてものじゃない。
まるで実体験のように、夢であるはずのものを記憶している。
このギャップが毎回私の目覚めを悪くしている。
どちらか一方に寄ってくれさえいたら、といつも思う。
そうこうしているうちに、バスに乗り込む時間ぎりぎりになってしまった。
耳からは、QQLの『帰納法的分析』という曲が流れていた。
インストルメンタル、つまりナルの歌声は入っていない。
数小節単位で楽器のソロが最初続き、そのあと、二つ同時に組み合わせで鳴り、三つで鳴り、最後に全ての楽器が鳴る。
そこで初めてどの楽器がどこのメロディかわかるようになっている。
曲を分解しただけと言ってしまえばそれまでだけど、歌詞とメロディしか気にしなくなりがちな音楽にも、バックグラウンドで細かな処理がされている、と気付かされる曲だ。
「お、執行部」
「あ、橘先輩。おはようございます」
「昨日はすまなかったな」
玄関で上履きを履いたところで声をかけられる。
橘先輩が、頭をかきながら謝った。
「いいえ」
「実は、犯人を見つけたんだよ。ああ、俺の方の犯人な」
つまり、先輩に粉をかけた人間か。
「園芸部だよ、あの粉は園芸用の肥料だったんだ。タンカルだな」
「タンカル?」
「炭酸カルシウムだよ。園芸部が生物部と共同で買ったんだが、置き場がなくて、生物室の隅に置いておいたらしいんだ。それを誰かが窓際に置き直して、しかも窓のカギが中途半端に開いてたものだから、知らない間に半分くらいがなくなってたらしい」
生物室は音楽室の二つ下、二階にある。
そこの窓辺に置かれた肥料が偶然風に煽られたか袋が傾いたかして一部が芝生に落ちたのだ。
そして普段は人がいないところにたまたま先輩がいて、粉をかぶってしまったというのだ。
「信じられない話だけどそんなこともあるもんだな。今朝タンカルが減っていたことに気がついた園芸部員があの芝生のところに来て、そこでばったり俺と会った、というわけだ」
園芸部員が嘘をついていなければ、それは彼らも驚いたことだろう。
「まあ故意じゃなかったし、ヘッドフォンだけ弁償ってことで落ち着いた。ヘッドフォンだけで二万はするんだけどな」
からからと笑いながら先輩が言う。
昨日の怒りはとうに消えてしまっているようだ。
「お、昨日の」
先輩が、私の肩越しに手を振る。
「おはようございます」
そこにいたのはポチだった。
昨日別れたときと変わらない顔で上履きに履き替えている。
今日は珍しく、というよりも、今までで初めて私よりも遅い。
「おはよう、杏さん」
「お、おはよう」
「何?」
「い、いや、遅いな、と思っただけ」
良かった、昨日のは見られてなかったみたいだ。
良かった?
「ああ、ちょっと調べ物していてね。えっと、橘先輩、お聞きしたいことがあるのですが」
「ん? なんだ?」
私とポチの会話には入らず立ち去ろうとした先輩を、ポチが呼び止める。
「先輩の実験のこと、知っていた人はどれくらいいますか?」
先輩は目を細めて不思議そうにポチを見ている。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
怪しまれたとでも思ったのか、先輩が強い口調で聞く。
「興味本位、というのはさておき、放送局員と執行部以外で、です」
「いやどうだろうな。俺が直接言ったのはうちの局員何人かくらいだけだったと思うけど」
「本当ですか?」
先輩の返答には満足をしなかったのか、ポチは念を押す。
「例えば、物理部とか」
具体的な名前を挙げる。
どうやら考えがあるみたいだ。
「思いだした。クラスの物理部の奴に一人話したな」
「なるほど、ありがとうございます」
そこでホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「ああ、もう行かないと、杏さんも。先輩、ありがとうございます」
軽くお辞儀をしてポチが教室へ向かい出す。
私はポチの後ろをついて歩く。
従っているわけではなく、単に同じ教室だし向こうの方が歩くのが速いというだけだ。
「ポチ、先輩に粉をかけたのは園芸部だって、さっき先輩が」
ようやく階段を上る手前で横に並び、一緒に一段目に足をかけたところで話し始める。
いましがた手に入れた情報を教えてあげる。
いつものことだからポチが驚くとは思えなかったし、褒めるなんてもってのほかだけど、せめて良かったくらいは言うと思っていた。
予想、もしくは希望に反して、ポチは聞いていたのかいないのかわからなかったほどの時間を置いて、「ああ、そう。
やっぱりそんなことか」とつぶやいただけだった。
「なによ、それ」
素っ気なく返すポチに苛立ちつつ顔をうかがう。
昨日と変わりはない。
歩きつつも考え事をしているのか、人差し指で唇を弄んでいる。
「それは解決した。まだただの偶然だ」
「まだ? なに『まだ』って」
「追いかける要素が少ない。条件が足りなくて証明ができない」
「何言っているの?」
「そうそう、杏さん」
質問は無視しつつも、私に話しかけてくる。
「なによ」
「音楽室のやつね、解けたよ」
「え? え? トリック?」
「そんな高級なものじゃない、ただの偶然だ。ただのね。放課後にでも話すよ」
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