第四週目「ロッカーと解答とパラシュート花火」
第四週目「ロッカーと解答とパラシュート花火」1
今週は月曜からずっと頭が痛かった。
天気がぐずついて気圧も低いからかもしれない。
そんなときはどうしても気分が乗らないものだ。
何とか毎日学校に行ってはいるけど、いつにも増して勉強に身に入らない。
三時間目に北条先生の現代文を受けたあと、私は四時間目の物理の準備をしている。
授業中は先週の二人が何度も思い出されたけれど、先生は変わらず平然としていた。
私は知らなかったけれど、先生が高校生のときはかなり人気があったそうだ。
しかも大多数は、同じ女子に、である。
執行部の記録にそういったものが残されていた。
当時はまだ部室前の投書箱が十分に機能していたらしく、割合相談事などが多かったらしい。
現在とは比べ物にならないくらい活動的であったようだ。
記録上はそうなっている。
私達のときと同じように、記録にならないものもたくさんあっただろう。
その中に、ファンレター、もしくはラブレターめいたものがひっきりなしに入っていて、その対処をどうすべきか、という議題があったほどである。
資料の中に、お兄ちゃんと先生を含む執行部員のスナップ写真が紛れ込んでいた。
「アンちゃんどうしたの?」
生あくびをしながら教科書をめくって今日の授業のページを開いたときだった。
桂花から声をかけられる。
「ん?」
意味がわからず、首を傾げる。
彼女は私の反応に困ったような顔をしていた。
「だって、顔が真っ白だよ」
「え?」
言われて、慌てて鏡を見る。
彼女の言うように、顔面蒼白だった。
ぐらりと頭の中が揺れる気がした。
言われて確認して、ようやく気が付いた途端に具合が悪くなる。
胸がつかえて、呼吸もままならない。
「大丈夫? 保健室に行ったほうがよくない?」
桂花の声が遠く聞こえる。
「ちょっと、無理かも」
ポーチを手繰り寄せ掴み、立ち上がる。
世界がゆらゆらする。
頭痛の薬が必要だろうか。
視界が揺らいで、思考も合わせて揺らいでいる。
頭の中でさえ、適切な言葉が浮かんでこない。
これは頓服にしておいた方がいいかもしれない。
緊急用の薬は入っているはずだ。
途中で飲んでいこう。
保健室に行っても意味はないだろうけど、横になるだけでも役には立つ。
大丈夫大丈夫、予想の範囲、何度もあったことだ、心配なんてどこにもないと言い聞かせる。
そうしないと、自分に負けてしまいそうだ。
近くの東階段を降りて、一階の中央廊下を歩く。
一階は通常教室はなく、図書室などがあるだけなので今の時間は人が少ない。
途中でトイレに寄り、薬を取り出して一錠飲む。
おまじないおまじない。
トイレを出て突き当たり近くまで進んで、左に折れる。
「すみません、少し休みたいのですが」
保健室のドアを開けて、声をかける。
「桜木先生ならいない。休むのは自由」
机の前に座っていた背中が振り返らずしゃべる。
「北条、先生」
私の声で、ようやく椅子を半回転させてこちらを見る。
いつもいる保健医の桜木先生の代わりに座っていたのは北条先生だった。
私が誰だかわかったのか、微かにうなずいた、ように見えた。
「どう、して」
「桜木先生は知り合いだ」
ああ、と小さく答える。
桜木先生は執行部の顧問だ。
三十代中盤なので、北条先生が執行部のときから顧問だとしてもおかしくはない。
先生が視線だけでベッドを指す。
最初の言葉の通り、休むのはご自由に、というわけだ。
当然誰もいないベッドに腰をかける。
寝るほどではない。
安物のパイプベッドは私の体重でもぎしりと音を立てる。
北条先生が無言でボードを差し出す。
保健室の利用者申請書を書くためだ。
何度か書いているので、そつなく書き、反対にして手渡す。
それを彼女は全く見ずに机の上に置いた。
興味がないのかもしれないし、プライバシーにかかわるから努めて見ないようにしたのかもしれない。
「桜木先生を呼ぶか?」
先生が表情も変えずに聞く。
緩く流れる焦げ茶色の髪だけが、生きている証拠のように揺れる。
どこまでも、人形のような人だ。
「いいえ、大丈夫です。いつものことですから」
「そうか」
今までも何度もあった。
だから、大丈夫だ。
二人の上に重苦しい空気がのしかかる。
のしかけているのは私の方で、先生は気が付いていないのかもしれないけれど。
ベッドをぐるりと囲むカーテンを閉めてさえしまえば、先生も中までは入ってこないだろう。
その予感はきっと正しいのだろうけど、私はそうしなかった。
できなかっただけかもしれない。
彼女も視線を逸らさなかった。
「お兄ちゃん、武人さん、ってどんな高校生でした?」
これ以上空気の密度が高まるのを避けるために、思いついた質問をする。
私は、誰かとの間で孤独を感じるのが苦手みたいだ。
それは病院でも言われている。
考え過ぎだ、とも。
「私は人に対して特定の感情を持たないことにしている。客観的にいえば、成績も運動も全て平均的だったな」
さらりと先生は答える。
それよりも、私は彼女が他人を評価しない、という点に興味を持った。
「人に、関心がないんですか?」
「わからない」
首を振るでもなく、先生はじっと私を見る。
それは私ではなく私の向こう側にある何かを見ているようでもあった。
「どうして、ですか?」
「考えたこともない。人として欠陥なのだろう。武人は私のことを、『まるで人形のようだ』と面白がっていた」
淀みなく、途切れることもなく先生は続ける。
私と同じ感想をお兄ちゃんも持っていたのだ。
「自分の意見を言わなければ誰も彼もが優しかった。他人を否定も肯定もしなければ自分にも同じように接してくれる。子どものうちに理解してしまったのだろう」
悔やんでいるようでもなく、彼女は変わらず抑揚もなく言う。
「『他人のことを考えるには、君の能力は高すぎる。ただし、処理しようと思えば、一度に考えられる量が多すぎて、耐えられないだろう。長い時間をかけて、それを調節する必要がある』と武人は言った。教師になったのはリハビリのようなものだ。家庭の事情で働かなくても生きてはいける」
北条家の厄介者、先生は自分のことをそう言っていた。
お兄ちゃんも父もそれを否定しようとはしなかったから、言うに足りる理由があるのだろう。
「そんなこと、生徒に言ってもいいんですか?」
教師といえば、もっと子どもに対する情熱があるものだと思う。
少なくとも、他に理由があったとしても、建前上はそう答えざるをえない職業でもある。
「『伝える機会があれば、若菜には伝えられることもあるだろう。僕の大切な妹のために最大限のことをしてくれ』」
「お兄ちゃんが?」
今でも、お兄ちゃんは心配性なのだ。
「武人は命の恩人だ」
「それは」
「抽象的にも具体的にも。特定の感情は持たない、と言ったが、私に影響を与えた人間といえば、武人くらいだ。武人は私のヒーローになるな」
感情が表面に出てこない先生にしては、それは最大限の評価なのだろう。
「ヒーロー、ですか」
「ただの憧れかもしれない。私は、武人のようになりたい」
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