水曜日「クリームソーダ症候群」2
昨日話した通り、あのとき見た幽霊の軌跡を辿るため昼食もそこそこに教室を後にして、私とポチは二階の吹き抜けに向かう。
校内放送では放送局がお昼の放送をしていた。
良く聴く局員の男子の声が曲名を告げる。
その声はどことなくいつもよりも沈んでいるように聞こえた。
「最初は、このあたりだったよね」
中央階段寄りの吹き抜けの手すりに触れる。
手すりは長方形の木製で私の胸と大体同じ高さだ。
築数十年も経っているのだから当たり前だろうか、細かな傷が無数についていた。
この高さをうっかり乗り越えてしまうとは考えられない。
上から手すりに力を加えると軽く軋むけど、私の体重くらいで折れることもなさそうだ。
昨日見た幽霊はここを乗り越えて行った。
「ポチ、何もなさそうだね」
「うん」
手すりを丹念に見ながら移動をしていく。
今のところ目立った発見はない。
「可能性としては?」
ポチの口癖をまねる。
「そう、可能性としては」
「あれが人じゃないとして」
「人じゃないよ」
あっさりとポチが認める。
「そこは認めるんだ」
「流石に可能性がどうとかじゃない。あれが人間なら、そうだな、透明な強化プラスチックが吹き抜けを横断するように設置されていたとか、天性の綱渡り師がいたとか、そういうのだ。
その可能性は無視していい」
「なるほど」
「こんなので感心しないで、でまかせだから」
最初からそんなはずはないと思い込んでいた私に比べれば、ポチはポチなりに『可能性』としていくつか方法は考えていたわけだ。
「そんなことないよ、私、そこまで考えていなかったから」
「杏さんは、ときどき素直で困るね」
「素直が取り柄なのよ」
「それは何も取り柄がない人が言うことだ」
反対側に回り、今度は影が乗り越えたとポチが証言したあたりを見る。
こちらもさっきの手すりと構造は全く同じだった。
「ねえ、これ」
手すりの一部に妙な傷があるのを発見する。
傷自体はそこらじゅうにあるので、見過ごしてしまいそうだった。
「これは、新しいね」
ポチも傷に触れる。
濃い焦げ茶色の手すりに縦に線が走っている。
床に垂直なものと、それに続いて平行な二本の線があり、吹き抜けに伸びていた。
「綱渡り、か」
「そっか」
この跡をつけたのが昨日だったなら、細い糸が反対側まで伸びていたはずだ。
「でも手すりの上にまっすぐ伸びているなら、この上を移動したことになるんじゃないの? あのとき見たのは手すりの高さが足のラインだったと思うけれど、綱渡りをしていたわけでもないし」
「まあ、あれが人間でないことがわかっていれば、再現する方法はある。手品と一緒だ」
「意味がわからない」
「例えばだけど」
ポチが教室側を歩いて廊下側の吹き抜けに戻り、右手を前に出す。
「シーツか何かを浮かせて糸に括りつける。反対側の手すりに糸を通してゆっくりと引けば、一人で再現できる。準備の時間と多少の道具さえくれれば、一時間で僕でもできるよ」
指先をくるくるとまわして、手繰るような身振りをする。
「そんなことすれば、誰かに見つかるんじゃない?」
「だからたとえばだよ。やろうと思えばできるってこと。たぶんもっと巧妙な仕掛けがあったんだろう。一人かもしれないし、複数人かもしれない。それでも杏さんに見つかるリスクはあったと思う。あの傷が昨日のだとわかったとしても、わかるのはこれくらい」
納得がいくような、誤魔化されているような。
「でも、人影は、柱の陰に消えていったんだよね?」
姿を見失った私に、ポチはそう教えてくれた。
私が到着したときには跡形もなかった。
「さっきのやり方だとできないね。そこで回収するもう一人がいたとかじゃないと」
「誰もいなかったよ」
「それなら二人の死角に回収ポイントがあったかだね。手すりの下の方は四階の僕の位置からも、杏さんの位置からも見えないし、そういうところかも」
「それは、かなり都合が良すぎない?」
「まあ、僕ら以外に目撃者がいたら死角はそれだけ減るわけだし。何にせよ、断定するような情報はないってこと」
「仕掛け人がいたってことくらい?」
「それもこの傷を使ったのだと仮定してこそ初めて出てくるものだけど」
昨日のポチの言うとおりしばらく留まって調べていれば、証拠があったのかもしれない。
少なくとも近くに誰かがいたことになる。
すっかり呆けてしまっていたのが悔やまれる。
確認のため、再度傷のあった手すりまで戻り、ケータイで写真を撮っておく。
「あ」
向こう側から声がした。
吹き抜け越しに目が合ったのは、吹奏楽団の高橋先輩だった。
こちらに向かい、お互いが声を交わせる距離まで近づく。
先輩は傷を指でなぞっているポチに話しかける。
「何か、わかった?」
手を止めて、ポチが返す。
「いえ、残念ながら今のところは」
「そう、昨日のことなんだけど」
「何か?」
「いや、うん、思い過ごしかもしれないんだけど」
「もし思い出したことがあるなら、何でもかまいません」
ポチに促されて、先輩が話し始める。
「関係あるかはわからないんだけど、あの日の何日か前に、音楽室の下の広場で、ヘッドフォンをして何かを持っている人がいたって、うん、ちょっとだけ私たちの話に出ていたのを思い出した」
ヘッドフォン? 広場?
「広場ってどこですか?」
「校舎と体育館をつなぐ渡り廊下があるじゃない、あそこの芝生」
ポチが軽く首を傾げている。
ポチにはまだ話していなかった。
月村さんの部活の友人が影を見たというのもその広場だったのではないか。
「あんまり人がいるってことがないんだよね、あそこ」
「誰か、というのはわかりますか?」
先輩がふるふると首を振る。
まとめられた後ろ髪が揺れる。
「四階からだけだし、私が見たわけでもないから。やっぱり、これは関係ないかな」
「いえ、十分な情報だと思います」
今のところ関連性を彼女が疑っているわけでもなさそうだ。
「あ、あとね、私が話したクラスの人で意見箱に入れた人はいないって」
「そうですか」
「うん、こんなもんかな。役に立つといいんだけど」
「ありがとうございます」
チャイムが鳴ったので切り上げて廊下を歩く。
ポチは下を見ながら自動で行き先が決められているかのように一定のペースで進む。
下唇を指で弄んでいる。
「広場、行ってみる?」
「ああ、そうだね。今日の放課後、図書室が終わったら。明日でもいいんだけど」
「ヘッドフォンって何だと思う?」
「耳にかけて音を聴く道具」
「意味を聞いているんじゃなくて、何をしてたかって」
「知らないよ。その人を捕まえてみないことには。野外で音楽を聴くのが趣味な人かもしれないし。一人で」
「真面目に考えてよ」
「情報がなさすぎるよ」
「ねえ、どうしてさっき先輩に昨日のこと言わなかったの?」
私たちがここで似たような人影を見たといえば、何か気がつくこともあるかもしれない。
私たちが体験をしたと告げることで、彼女なりの考えやまだ伝えていない思いつきを補強することだってある。
ポチならそれくらいは考えそうなものだったけど何も言わなかった。
「それは、まあ、杏さんの言葉を借りて言えば、彼女も容疑者の一人だしね」
狂言も含めればそうかもしれない。
音楽室の件に限っていえば、他に証人もいないため彼女の言葉を全面的に信じたうえで考えるしかない。
彼女が嘘をついている、というのはありうる話だ。
「可能性としては?」
「もちろん、可能性としては」
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