水曜日「クリームソーダ症候群」1



「わあ!」


 背中に重みを感じ跳ね起きる。

 ずず、と灰色の物体がベッド脇に滑り落ちていった。

 のそのそと床を移動しているのは猫のコタローだ。

 ちらりと振り返ったかと思うと、半開きのドアを器用に抜けて去っていった。

 朝ごはんをくれ、という合図だったのだろう。

 

 お兄ちゃんに送ったメールを読み返す。

 お兄ちゃんが高校生だったのは九年前くらいになるけれど、こういった怪談は長く受け継がれていることも多い。

 同じような調査をお兄ちゃんが執行部のときにしているかもしれない。

 もし、それについて何かの情報が得られれば心強い。

 何よりお兄ちゃんと話すための話題がある、それだけでも十分というわけだ。

 どちらかといえば、執行部に入った目的はこれが大きい。

 

 今回の引っ越しでお兄ちゃんと離れてしまうのが一番残念だった。

 ただその行き先が昔お兄ちゃんの住んでいた街となれば多少の希望も持てた。

 これほどまでに東京とギャップがあるなんて、あの時は全く思いもしなかったわけだけれど。

 

 一階では、むすっとした顔で、お父さんが新聞を読んでいた。

 

「おはよう、杏」

「おはよう」


 しかし、決して怒っているわけでも、不機嫌なわけでもない。

 人に比べて物静かなだけなのだ。

 正直、このお父さんのどこをお母さんが気に入ったのかは今となってもさっぱり不明である。

 そのうえ、その理由はもう聞くこともできない。

 

「コタローも、おはよう」


 コタローは一心不乱に目の前のご飯を食べている。

 食事はお父さんが用意してくれたみたいだ。

 その集中力やすさまじく無駄な気迫さえ漂わせている。

 ときどき何かを喋っているようにも聞こえてしまうのが恐ろしいほどだ。

 

 適当にお弁当箱に余り物を詰め、身支度をして家を出る。

 駅前のコンビニで新しい飴を補充して、バスに乗り込んだ。

 飴がなくては一日が始まらないといっても過言ではない。

 音を下げたイヤフォンから音が聞こえる。

 

 この路線は鉄道線に沿うように作られている。

 北海道の南にあるこの街は、いまや人口十万人を切る過疎化の進む地方工業都市の一つだ。

 公共交通機関は夜十時にはほとんど機能しなくなるバスと、一時間に数本しかないワンマン電車がすべてで、繁華街が全然繁華ではなく、商店街を歩けばシャッターが閉まったままの店が大半を占める。

 

 おしゃれをするには絶望的で遊びまわるには壊滅的な街だ。

 東京から引っ越して一ヶ月が経つ。

 工場特有の煙が立ち上り、その臭いがどことなくする日もある。

 海風のせいか霧が多くどんよりした天気も多い。

 いらいらするとこの街の空気でさえ鉄臭く感じる。

 

 それに対するように聞こえてくる曲は軽快で小気味良い。

 曲名は『クリームソーダ症候群』。

 クリームソーダを愛する女の子が、ただひたすらにクリームソーダがいかに素晴らしい飲み物であるかを軽快なポップにあわせて歌うという、それだけの歌である。

 なぜクリームソーダが好きなのかについて、『女の子って、そういうものでしょ』と断言している。

 説得力が皆無なのにもかかわらず、それなら仕方ない、と思わせるだけの雰囲気がある。

 またこの質問に対して作曲担当のユーリが『意味がないと何か問題なのか?』という名言を残している。

 

「次は、母恋駅、母恋駅です。お降りの方は降車ボタンをお押しください」


 乗車ドアが開いて何人かの高校生が乗る。

 その中に埋もれるように細身で背の小さな女の子がいた。

 大人っぽい表情が中学生でも通りそうな体にアンバランスに見えて不思議な魅力がある。

 彼女がこちらを見て小さく手を振った。

 ケータイにぶら下がったストロベリーケーキを模したストラップが揺れている。

 彼女はクラスメイトの月村さんだ。

 誰に対しても明るく振る舞い、率先的ではないがかといって引っ込み思案でもない、私から見てもかわいらしい女の子だ。

 ふんわりした立ち居振る舞いに反して、数学が大得意である。

 

 私の横が空いていたので、手招きをして月村さんを呼び込む。

 

「おはよー」


 にこやかに振動にふらつきながら彼女が横に座る。

 今日も安定感たっぷりの癒し系だ。

 

「QQL?」

「そう! 昨日アップされたやつ!」

「私も聴いた! めんこいよね!」


 彼女も私と同じQQLのファンだ。

 

「今日の数学の小テスト、勉強した?」

「うーん、まあ大丈夫っしょー」


 小首を傾げる彼女に不安の色はない。

 おそらく、それなりに自信があるのだろう。

 

「アンちゃん」

「なに?」


 小声で月村さんがささやく。

 こんなふうに柔らかい声をかけられれば、男の子はいちころだろう。

 

「執行部で幽霊探しをしているってほんと?」

「え?」

「部活の先輩に聞いたんだけど、執行部がそういうことをしているって」

「噂になっているの?」


 彼女は弓道部だ。

 

「うん、少しだけね」


 月村さんが親指と人差し指を目の前で合わせて、『少しだけ』のジェスチャーを作る。

 

 私たちが調査依頼を受けたのが月曜日で、幽霊のような姿を見たのが昨日の火曜日だ。

 誰にもこのことは言っていない。

 話題に出してはいけない、と言われたわけではなかったけれど、あまり広めない方がスムーズに行くのではないかと思ったからだ。

 元々関心がなかったわけだからポチも周囲に言っているとは考えられない。

 だとすると知っているのは話を聞いた吹奏楽団の高橋先輩、新聞局の一ノ瀬先輩、それに執行部の人たちだけだ。

 

「もしかしたらアンちゃんが何か知っているのかなって」

「知ってるも何も、私とポチが今まさにしているの」


 瞳をくるん、と丸くさせて驚いている。

 

「そうなんだー、シロがかー」


 思うところがあるのか何度も首を細かに振る。

 

「どうしたの?」

「えっと、うん、実はね、私、シロの横の中学校だったんだけど、そういうの、えっとね、この街の不思議なこととか、子どもたちの相談事なんかを解決して回る人がいるって、噂で聞いていたの」

「それがポチ?」

「噂だからね、噂も噂、はっきりと誰々だって聞いたことはないし、私もシロに直接聞いたことはないし、それに」

「なに?」

「男女二人組だって聞いていたから」


 月村さんが言い淀む理由がなんとなくわかった。

 もしも、ポチがその一人だとすれば、もう一人はきっと紫桐さんのことだろう。

 そしてそのことを一ノ瀬先輩も知っている。

 だから、昨日私のことを『今度の相方』と表現したのだろう。

 

「アンちゃんアンちゃん、ほっぺ膨らんでるっしょ気をつけて。噂だから、ね」


 月村さんはわざと念を押す。

 

「そうだね」


 彼女の気遣いに曖昧に応える。

 

「進捗はどうなの?」

「全然進んでないんだけどね。何か知っていることがあったら教えてほしいくらい」

「うーん、実はね、うちのところでもね、見たっていう人がいるの」

「弓道部で?」


 弓道場は本校舎の西側を出て体育館に辿りつく前にある。

 部活動以外では使用することはない。

 

「弓道場の中じゃなくて、外みたいなんだけどね」

「それ、できれば詳しく聞かせてくれる?」

「いいよー」


 私の求めに月村さんが気持ちよく応じてくれる。

 間接でも情報がこんなところで得られるとは思ってもいなかった。

 おっちゃんこ、と小さく言いながら体を私に近づける。

 

「昨日、四組の子がね、練習終わりの片づけをして一旦学校を出たんだけど、忘れ物をしたらしくて、学校に戻ったんだって」

「何時くらい?」

「終わって電気が消えるまでだから、六時? 七時?」


 音楽室の件と同じくらいか。

 この時期暗くなって幽霊が出そうで、かつ生徒が残っている時間となればそのあたりになってしまうのもうなずける。

 夜中の十二時に学校で幽霊を見たという方が嘘っぽく聞こえてしまうものだ。

 

「したっけ、校舎からじゃなくて、渡り廊下を横断して帰ろうとしたら、そこで、白い影がぼうっと立ってたんだって」

「場所って、どの辺?」

「うーん、弓道場と校舎の間だよ、ちょっと芝生になっているところ」

「それで?」

「うーん、それだけ、その子なまらおっかなくなっちゃって走って逃げ出しちゃったって」

「そんなにしっかり見ているわけじゃないんだ」

「その子は幽霊だと思っているみたいだったけどねー」


 これは検証しておく必要があるだろう。

 あとで教室に行ったらポチにも伝えておこう。

 

「月村さんは、幽霊とか信じてる?」

「私は、そういうのはあんまり信じてないかなー。占いとかも、何か苦手なんだ」


 首を捻り思案したあと彼女が言う。

 見た目はほんわかとしているけど数学の能力はクラストップなのだ。

 ポチとは違った意味で合理的な考え方ができるのかもしれない。

 

 それから、月村さんは柔らかい表情を崩さず付け加えた。

 

「幽霊よりも、きっと生きている人間の方が怖いっしょ、何倍も」

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