金曜日「帰納法的分析(もしくは分散)」3



「そろそろ来る頃だと思っていた」


 新聞局のドアを開けて私は一ノ瀬先輩の前にいる。

 先輩は火曜日と同じようにイスに座りヘッドフォンを首にぶら下げていた。

 音楽が微かに漏れている。

 

「あいつに止められなかったのか?」

「……関係、ありません」


『情報が欲しいなら』とケータイのメールに入っていたのは昨日だった。

 先輩にアドレスを伝えたことはない。

 ポチに言えば止められるのはわかっていたから伝えてはいないし、要らない心配を与えることもない。

 全て終わったあとで言えば済む問題だろう。

 ポチにそれ以上を言う権利もなければ、私が言わなければいけない義務もない。

 

 それに、今となっては、ポチに会ってどんな顔をしていいかわからない。

 

「わかった。それ以上は聞かない」


 ふっと私を見て笑い、先輩がイスに腰を深くかける。

 

「まあなんだ、そこへ座ればいいよ」


 手でドアに近い席へ誘導する。

 

「遠慮しておきます」


 ドアの近くに立っていつでもドアノブを握れるようにする。

 警戒していないわけではない。

 ポチの忠告に従うわけでもないけどアドレスをどこからか入手してきたのは事実だ。

 

「硬くなる必要はない」

「どうして、私のアドレスを知っているんですか?」

「その質問には答える気はないな」

「ぽ、シロが教えたからですか?」


 私と一ノ瀬先輩に関係があるとすれば今の幽霊騒ぎだけで、それを知っているのは私と一ノ瀬先輩以外にはポチしかありえない。

 

「聞こえなかったか? 答える気はないと言ったんだ」


 その疑問は、先輩に拒否されてしまう。

 

「わかりました。早速ですけど、聞きたいことがあります」

「そういうもの言いは良くないな。あいつから何も聞かなかったのか?」

「どういうことですか?」

「情報には対価が必要だ、当たり前だろう」


 さらりと先輩が返す。

 

「対価、って、具体的に何ですか?」


 嫌なフレーズに嫌な想像をしてしまう。

 

「情報の対価は情報だ。行動でもいいがな。一つ情報が欲しければ、二つ情報を差し出す」

「だから本を抜き取ったんですか? 先輩は何を知っていて、何をしているんですか?」

「それは質問か? 詰問か?」


 さっきから一度も目を逸らさず、先輩はしっかりと私の目を捉えている。

 

「どちらでもいいです」

「まあ、サービスしよう。これがそうか?」


 先輩の右に置かれていた本をテーブル越しに滑らす。

 色合いから、なくなっていた製本の二冊だということは明らかだ。

 

「返してやるよ。ついでに図書室に戻しておいてくれ、それでチャラにしよう」


 目の前に置かれた本は開かない。

 私も先輩から目を離すわけにはいかなかった。

 

「ありがとうございます。でもどうして本を?」

「一つヒントをあげよう、杏ちゃん」

「なんですか」

「君は物事をストレートに捉えすぎている。自分を満たす、より簡単な公式が存在すると思っている。物事を考えるとき集中しすぎてはいけない。君は鳥の目が足りない」

「何を言っているんですか?」

「緊張しているな」

「していません」


 慌てて、強く握りしめていた左手のこぶしを開く。

 じわりと汗を感じる。

 先輩は質問には答えない。

 見透かすような言葉で先輩が聞く。

 歌うような、不思議なリズムだ。

 

「俺が何かしたか? どうして緊張している?」

「シロが、先輩には気をつけろ、と」


 先輩が呆れたような表情をする。

 急に肩の力が抜けた気がした。

 

「気をつけろ? あいつにしては面白いことを言うな。気をつけるならあいつの方だ」

「何を言っているんですか?」


 つい、先輩の言葉に反応をしてしまう。

 

「あいつにこそ騙されるな。君の前じゃぼんやりとしているように見せているかもしれないが、そんな真っ当な奴じゃない」

「そんな、こと」


 ない、と言いたい言葉を、昨日の出来事がふさぐ。

 紫桐さんと話していたポチは、私の知っているポチではなかった。

 

「いいや違うな、真っ当すぎるんだ。自分の正義に目が眩んで、現実を正義に合わせようとする。あいつはそんなやつだ。そんなものが通るのは子どもだけだ」


 先輩は、それでも楽しそうに続ける。

 

「あいつに比べれば俺なんてかわいいものだ。自分の領分ってやつを理解しているからな」

「シロのことはいいんです。本を持ち出した理由を教えてください」


 このままポチのことを聞いていては彼に対する考えも変わるかもしれない。

 今はそこが問題ではないのだ。

 棚上げにしても、耳をふさいでも、先輩の言葉を気にしてはいけない。

 

「ただの親切心だ。おせっかいだと思うなら、聞き流せ」

「おせっかいです」

「素直だな。素直っていうのはいいね、何にも換え難い素質だ」


 ポチとは正反対の意見をもって、ポチと同じく私を素直だと評価をする。

 

「そうだな。対価が欲しいところだが、君は僕の知りたい情報はさほど持っていないようだ。ではサービスついでにどうでもいい質問でもして、それを対価としようじゃないか」


 質問に答えるなら質問をする。

 それが先輩にとっての対価であり、彼のスタンスなのだろう。

 たとえそれに価値がないとわかってはいても、そうしなければ彼の価値観に影響を及ぼしてしまうのかもしれない。

 だから私も承知をしなければならない。

 

 きっとポチも何かを対価にして、火曜の情報を手に入れたのだろう。

 

「じゃあ、質問をしよう。そう身構えることはない。たわいもないことだ」

「はい」

「君は、あいつのなんだ?」

「え?」


 なに、とはなに?


「君がシロと呼ぶあいつのことさ」

「な、なにって」

「正直、俺は驚いた。確かにあれは俺たちにとっては失敗そのものだ。だからといってあんなにふぬけるなんてな。あいつらしいといえばあいつらしいのかもしれないが」


 先輩は、私の知らないポチの話をしている。

 私はポチと知り合ってまだ一ヶ月ちょっとでしかない。

 それでわかりあえるなんてありえない。

 だけど、本当にそれだけだろうか。

 彼が私に隠し事をしているのではないか。

 それとも先輩が嘘をついているか、大げさに話しているだけなのか。

 疑問に答えるにしても、彼を知らなすぎる。

 

「恋人か?」

「いいえ、違います」


 それは違う。

 明確に否定できる。

 そんなわけはない。

 

 だって、ポチは。

 

「じゃあ、友人か」


 きゅるり、と。

 心が、ねじれる音が聞こえる。

 

「いえ、たぶん、きっと」

「それとも、質問を変えようか。君はあいつをどう思っている? あるいは、あいつは君をどう思っている、と君は思う? 君はどうなりたい?」

「え、ああ」


 無視すればいいのに、先輩に聞かれてしまえば考えざるをえない気持ちにさせられてしまう。

 どれについて考えるかを考える前に、先輩が言葉を被せてくる。

 

「君は、この関係を悪くはないと思っている。できれば続けたいと思っている。だけど、それをあいつに聞く勇気はない。そうすれば、発展するか、後退するか、どちらにせよ動いてしまう。プラスにもマイナスにも君は動くことができない。それに何より君はどこかであいつに嫉妬している。その思考をどこかで恐怖にすら感じている」

「そんな、ことは」


 あるのだろうか。

 深く考えたことはなかった。

 

 それとも、先輩の言う通り、考えようとしなかっただけなのか?


「そうかそうか」


 答えるよりも先に、納得したように先輩が頷く。

 

「なん、ですか」

「いや、大体わかった」

「なんですか!」


 つい声を荒らげてしまう。

 

「気にすることはない。君は全然特別じゃない。どこにでもいる女の子で、おかしくなんかない」

「何を言っているんですか。わかりません」


 なんだか喋り方が先生のようだ。

 とにかく相手を落ち着かせようとする、甘い声。

 私の嫌いな、あの声だ。

 ずきずきと胸が痛む。

 

「それだけだ。確かに、君は他人と関係を築くことに恐怖を持っている。そしてそれを知っている。他人にそれを悟られまいと、必死になっている。だからこそ、そうすることで、集団の中で孤独を感じている」


 なんで、そんな。

 先生みたいなことを。

 

 頭の中でアラームが、鳴っている。

 限界だ、ブレーカーを落とせ。

 でも、これは夢じゃない。

 落ち着け、大丈夫だ。

 呼吸をしろ。

 自分に自分で命令をする。

 

 そうしないと、自分が保てなくなってしまう。

 

「誰かに自分を認めてほしいと思っている。誰かを認めたいと思っている。でもどうしようもなくそれができない。それは他人に踏み込むことで他人に踏み込まれることだからだ」

「や、そんな、やめて、ください」


 心を、見つめるようなことは。

 

 ぐらついて細くなってしまった心の束を寄せ集めて、足下に集中させる。

 

「なるほど」


 何かに納得したようで、先輩はその手をゆっくりと前に伸ばし、私を指さす。

 

「おまじないをしてあげよう、杏ちゃん」


 視界が暗転して、頭の中が唐突に真っ白になる。

 持てる限りの意識を振り絞って、立ちくらみを耐える。

 

「君はただの女の子で、誰だってそんな恐怖を持っている。君が単に顕著に顕在化しただけで、それ自体は何ら不思議でもない。たとえそれに苦しんでその傷をつけたところで、そんなことは瑣末なことなんだ。誰にとってもね」


 とっさに、左腕を右手で押さえる。

 見えないはずだ。

 なぜなら傷はとっくに治っている。

 跡だってほとんど残っていない。

 傷を知っているのはほんの数人だけだ。

 

 先輩が、知っているはずがない。

 

「君の傷は治ってなんかない。そういうものは治らない。上手な付き合い方が必要になるだけで、治るなんてものじゃない。ぼんやりとそこに存在し続ける。まるで幽霊のように」


 どうして、そんな言い方をするの。

 

 どうして、そんなに知っているの。

 

「何を、調べたんですか」

「調べた? 何を?」

「私の、こと」

「そんな必要はない。それは自惚れだよ。君みたいな子は何十人と見てきた。俺がそんなことをするまでもない。ちょっと注意力を働かせれば誰にでも見える。そう、あいつだって、とっくにそんなことわかっているのかもしれないぞ」


 それは、そうかもしれないけれど。

 初めて会ったときに、あの交差点で助けてもらったのは事実だけど。

 だからって、ポチはそんな言い方はしない。

 

「まあ、そんなことはどうでもいいか」


 これまでのことを、全て、どうでもいいで済ませられる。

 

「そう、だから君は何にも特別じゃない。わかったら、それに酔うのは止めるんだ」


 先輩が断言する。

 いいや、これは、まるで、断罪のようだ。

 

「あ、ああ」


 言葉が出ない。

 こんなに考えられるのに言葉がのどから出ない。

 まるでのどを強い力で絞められてしまったかのように、呼吸ではなく言葉が殺されている。

 

 ひゅうひゅうと、声にならない息が漏れている。

 

「なんだ、あっけないな」


 体がよろけて、右手を机の上に置く。

 埃っぽいざらつきを感じた。

 

 元々奥に長い部屋が、さらに細く見える。

 

 先輩が、声も届かないような遠くにも、今にも触れてしまいそうなほど近くにも思えた。

 

「さて、率直に言おう。本を抜いた理由は君をここに連れてくるためだ。それ以外に副産物はあったが、主目的はそれだけだ」

「どう、して」

「君に興味があったからさ。俺の知るあいつと行動をともにする人間がどんなものかと思っていてね。そんな人間は、知る限り極少数だ。もし君が俺の脅威となるなら、しかるべき対応を取らなければいけないと思ったまでだ。でも安心していい」

「……なに」

「君は普通だ。あいつは君に影響されたわけでもないらしい。これ以上あいつの側にいることを推奨はしないが、あいつの害になることもないだろう」

「そんな」


 先輩が言うことは、つまり、ポチと一緒にいるな、ということだ。

 

 いいや、違う。

 そんなことは、つらくない。

 それは、私にとっては軽いことだとわかってしまっている。

 先輩は私を真正面から捕まえて、ポチは特別だが私はどこにでもいるような、普通の人間だと明言したのだ。

 

 それにどうしようもなく私が耐えられなくなる。

 だからこそそれが一層私にのしかかる。

 そんなつもりはないのに。

 それを押し殺してきたのに。

 それを肯定しようとしてきたのに。

 

 私が普通であることを認めるのが、こんなに怖いものだなんて。

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