金曜日「帰納法的分析(もしくは分散)」4



「杏さん!」


 ノックもなしに、飛び込んできた人影。

 

「ポチ……」

「よう、久し振りだな」


 立っていたのはポチだ。

 走ってきたのか荒い吐息が聞こえる。

 息を切らしているようだ。

 

 でも、どうして?


「勘弁してくださいよ、一ノ瀬先輩。というか火曜に会ったばかりじゃないですか」

「そうだったかな」

「約束したじゃないですか、どうして彼女に会ったんですか」


 約束?


「おいおい、冗談じゃないぜ。ここは俺の部室で彼女が一人で来たんだ。そこまで俺に責任を取れっていうのか?」

「そんなもの、信用できません」


 私は連絡を受けたけど、会うことを決めたのは私で先輩ではない。

 

「信用がないってのは悲しいね。で、何をしに来たんだ?」


 先輩が頬杖をしながら、イスにもたれかかる。

 

「僕は彼女を連れ戻しに来たんです。それ以外に用はありません。それが終わればすぐに帰ります」


 一気に言葉を吐き出したかと思うと、つかつかと歩き私と先輩の間に割って入る。

 

「連れ戻しにきた? 彼女は自分の意思で来たんだ、そうだろう?」


 先輩が、私を見る。

 まるで、とけそうな、視線だ。

 

「あ、あ」


 言葉が出ない。

 代わりに、ポチが答える。

 

「仮にそうだとしても、今もここにいるのは彼女の意思じゃないでしょう?」

「それもお前が決めることじゃないな」


 舌打ちが聞こえる。

 どちらからかは聞き取れない。

 

「杏さん、大丈夫?」


 さっきから言葉を出せないでいる私に、ポチが声をかける。

 

「気をしっかり。あまり考えちゃだめだ」


 考える?

「何をしたんですか?」


 先輩を向いて、語気を強めるポチ。

 

「何も。いつものちょっとした『会話』だよ。そうだろう?」


 一方の先輩は、のらりくらりとしている。

 同意を求められているのは私だ。

 

「杏さん、答えなくていい」


 先輩の問いかけを、ポチが遮る。

 

 私は、何をされたのだろう?

 ただ、会話をしていただけ。

 そう、それだけなのに。

 ポチは、どうして怒っているのか。

 

 頭が、ぼんやりする。

 

「なんだよ、変なものを見るような目で見るなよ」

「そうやって、人の傷跡をえぐるのがそんなに楽しいんですか」


 キズアト?

 何のこと?


「楽しくはないね。俺だってそんなつもりはない。やりたいのとやれるのは別だ。使いたいのと使えるのは別だ。どうだお前が言いそうなことだろう? 狂言回しなのはお前だ」

「これ以上言うことはありません」

「つれないな、もうちょっと遊ぼうぜ」

「断ります」

「まあいいがな。なかなか面白い逸材だと最初は思ったが、こっちも飽きてきたところだ」

「もういいですね」

「そうだな」


 座ったまま、先輩が手をポチに伸ばす。

 

 当然届くはずもないのに、ポチが身構えるのが背中からでも感じ取れた。

 

「似た者同士だな。まるで、空っぽだ」

「止めろ!」

「諦めろ。その先はない。お前はもう行き止まりだ」

「僕を見るな!」

「光を見つめても焼けるだけだ。お前だってわかっているだろう? 何を学んだ? これじゃあのときの二の舞だぞ」

「黙れ!」

「やれやれ、だな」


 滔々と静かに語る先輩に、強く意思で撥ね飛ばそうとするポチ。

 

 やがて先輩がさじを投げ出したかのような仕草をして、ポチの言う通り黙る。

 

 一呼吸分の沈黙があって、ポチが先輩から目を離し、私の瞳を捉える。

 

「帰ろう」

「え、あ」


 ポチが、硬直した私の手を取ろうとする。

 彼の熱が触れる前に伝わってくる。

 鼓動を感じる。

 それが私なのかポチなのか、それともこの世界なのか、それはわからない。

 

「大丈夫、もう大丈夫だから」


 びりびりと体に何か走った。

 誰かが私に触れる。

 直感的に不安を感じる。

 私から不安が溢れ出る。

 

「や、やめ」


 私はいつの間にか駆け出していた。

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