金曜日「帰納法的分析(もしくは分散)」5
私は一階の廊下を歩いていた。
どれくらい時間が経ったかはわからない。
誰にも見られないよう下を向いて空間がある方へ、壁にぶつからないことだけ気にしながら歩いている。
行く先がどこでもよかった。
ただ歩いている間は色々なものが我慢できると思っていた。
「あ、ごめんなさい」
廊下の角を左に曲がったところで誰かにぶつかる。
「んにゃ? あららら? どうしたの?」
「……リンゴ、さん?」
図書局員のリンゴさんだ。
鍵の束をじゃらじゃらと回している。
彼女の赤みがかった髪が暗く反射していた。
「ご名答、そうだよ。どうしたのお嬢さん?」
「いえ、なんでもありません。大丈夫、です」
「大丈夫な人はそんな話し方をしないのよう。ちょっとおいでなさいな」
「でも」
「いいからいいから」
拒否をする私の腕を強引に掴んで、ずいずいと図書室まで連れていく。
いつの間にか机に座らされて、ついでにお茶まで出された。
さささ、とお茶を勧められて、私が口をつけるまで猫のようにじっとこちらを見ていた。
「もう閉館しているからね、安心して大丈夫。怖いお化けはもう出ない」
「え?」
「今にも死にそうな顔をしていたわよ、杏ちゃん。そういうの敏感なんだから私は」
笑顔を崩さずリンゴさんは続ける。
「まったく、シロ君が飛び込んでくるもんだからびっくりしちゃったよ」
ふう、と自分の分のお茶を冷ましつつ指を立てて会話をする。
メガネが曇っている。
「……どういうことですか?」
「いやね、さっき図書室に来て、『水曜日に来た子が来ていないか?』って聞いてきたのよ。三十分は前だと思うけど、あんなに慌てたシロ君は初めて見た」
「そう、ですか」
三十分なら私が新聞局から出たあとだろう。
「痴話げんか、ってわけじゃないわね。ま、詮索するほど野暮じゃないわよ私も。そうそう、ついでにシロ君がこれを置いていったわ」
リンゴさんが本をとすんと机に置く。
一ノ瀬先輩が私に返した、新聞局の昔の記事だ。
ポチがあのあと図書室まで持ってきたのだ。
「いいですか?」
「どうぞ」
本を受け取りぺらぺらとめくると、探していた記事が見つかる。
新聞はかなりセンセーショナルな出来事のように幽霊騒ぎを取り上げていた。
「私もさらりと見てみたけど、なかなか面白かったね」
幽霊騒ぎとして色々な証言を載せている。
記事にされた一番古いものは私たちが見たように吹き抜けに浮かぶ幽霊だった。
昔四階の視聴覚室で亡くなったという少女の話まで真偽不明のまま載せられていた。
尾ひれがついた騒ぎは事態を重くみた執行部、お兄ちゃん達に調査させるまでになる。
そのこと自体もまた、格好のネタとなったようだ。
「事実は小説よりも奇なり? ちょっと違う? 逆か、現実なんてこんなものか、だね」
リンゴさんはこちらを覗きこみながら、私が読み進めているのに合わせて会話を振る。
そして、最後に事の顛末として化学部の証言が登場する。
それも執行部の調査による自首のようなものだ。
化学部が実験で余った材料で浮遊する物体を作った。
それを偶然見た生徒が幽霊だと騒ぎたて、新聞局が新聞にしてしまった。
事が大きくなってしまい化学部が名乗りでなかったために噂が広がってしまった。
それだけの話だった。
新聞局と化学部は一ヶ月間の活動自粛要請を執行部から言い渡され、双方とも受け入れている。
新聞局は反省として、行き過ぎた姿勢への謝罪文と今後の方針を掲載している。
「考えれば簡単なのに、どうしてこんなに騒ぎになったんでしょ。人って、怖いね」
月村さんが『幽霊よりも人の方が怖い』と言っていたのを思い出す。
起こったことはごく単純なことで見過ごしてもかまわなかったのに、誰かが声を上げたことで噂が無制限に伝播していったのだ。
幽霊を見た、という経験は恐怖ではあったかもしれないが、人とは違う体験をしたという心をその人に植え付けた。
それを誰かに話したくて仕方がない、という気持ち自体はわからなくもない。
「さて、と」
ぐいっと自分のお茶を飲み切り、リンゴさんが立ち上がる。
「どうする? 逃げちゃう?」
困惑する私に、窓側に視線を移して優しくささやく。
つられて私も見やると、テーブルの上に開いたままのカバンが置いてあった。
ポチのだ。
ポチはまだ帰っていない。
図書室にカバンを置いてきっとまだ私を探している。
このままここにいれば、いずれポチとも顔を合わせなくてはいけない。
「辛いことなら逃げたっていいのよ。何でもかんでも戦えるほど、人は強くないんだから」
リンゴさんの言葉に、何も返すことができない私は、黙ったまま窓の外を見つめる。
グラウンドではサッカー部が練習をしていた。
右奥のグラウンドには野球部がいるだろう。
この世界にはたくさんの人がいて、それぞれに考え悩んだり喜んだり悲しんだり苦しんだりしている。
それが電波のように、密集しあって干渉したり、飴のように融け合ったり、磁石のように反発し合ったりしている。
そんな当たり前のことが、ときどき怖くなる。
「あ」
グラウンドが一瞬眩しく光った。
「もうそんな時間」
左手で目元を押さえてそちらを見る。
サッカー部のために照明が点いたのだ。
もしかして。
それは、可能性だ。
見過ごしてしまいそうなほどの可能性の砂の粒。
あるいは無視しようと心のどこかで努めていた不自然なパーツ。
それが、光の中に見えた。
カチリ、とピースが嵌まった音がした。
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